見ていた夢が終わり、目が覚めるほんの少し手前。
靄のかかる頭の中でニワトリの鳴き声が響いている。
次いで、繭を割るように意識が浮上する。

むくりと上体を起こして辺りを見渡せば、ソファの上で大の字になり、その大きな体をこれでもかと上下させる男の姿が視界に入った。

少女は寝ぼけ眼で立ち上がり、つい今ほど自身が横たわっていた布団を簡単に畳んで壁際へと追いやる。
昨日片付けたばかりなので酷い有様というわけではない部屋の片隅に、少女が寝る前にはなかったはずの酒瓶が控え目に転がっていた。
また後で片付けよう、とぼんやりとした頭で本日のスケジュールに酒瓶の片付けを加えてその足を庭先へと向ける。

起床を手伝ってくれたニワトリ小屋のニワトリに挨拶をして、庭の水道で顔を洗えば少しずつ頭が冴え渡る。
夏とは言え、顔に冷水が触れる瞬間は息が止まりそうになった。
タオルで顔を拭き終えた頃には、その目はすっかりと覚醒していた。

朝から元気溌剌と鳴く蝉の声を聞きながら、何気なく街を見下ろす。
早朝というわけではないが、日はまだ登り切ってはいない。
すでに活動を始めている人々の姿が遠くに見え、少し寝坊をしてしまったかと何とはなしに罪悪感が過ぎった。

ニワトリ小屋から卵を数個拝借した少女は、先ほどよりもしっかりとした足取りで家の中へと戻り、未だ安眠を貪る巨体を素通りして台所へと滑り込む。

一晩ですっかり乾いたフライパンに油を塗って火に晒し、それが熱した頃に取ってきたばかりの卵を割り落とす。
じゅわっ、と小気味のいい音が跳ねた。

足りなくなった食材を確認しながら次いで適当に二、三品を用意すれば、米が炊き上がると同時にソファの上の人物が目を覚ます。


「人間界に行ってくる」


机の上に並んだ朝食に視線を落としながら、その男は腹の辺りを掻き大きな欠伸を一つ。
剥き出しになった牙にも臆することなく、男の手元に箸を用意していた少女はこれでもかと目を見開き男を見上げた。


「お土産!」
「あァ?弟子探しに行くだけだっつの」
「お土産ー!」
「駄々こねてんじゃねェ!」


男の咆哮のような怒鳴り声に、少女は次第にむっつりと頬を膨らませ、静かに男の前の前の席に腰を下ろした。
誰に言うでもなく「いただきます…」と胸の前で手を合わせながら紡がれた声がなんとも弱々しい。


「熊徹よ、何もそこまで大声を出さなくとも良いだろう。通りまで聞こえていたぞ」
「そうだぜ熊徹!名前は毎日頑張って家のことしてくれてるって言うのによォ」
「うるせェ!お前等はいつも名前の肩ばっか持ちやがって!」


熊徹と呼ばれた男は、夏場は開け放っていることが殆どの窓の外からこちらに野次を飛ばす突然の来訪者に対して、丁重に唾を飛ばし返した。
彼らが音もなく現れたことに関しては、あまりにもいつものことなので今更驚きはしない。

熊徹は少女が焼いた目玉焼きを一口で放り込み、荒く咀嚼しながら目の前の小さな少女をじとっとした眼差しで見据える。
少女の口に運ばれる食べ物のサイズのなんと小さいこと。

暫く気まずそうに視線を彷徨わせた熊徹は、少女が用意してくれた朝食を勢いよく平らげぼそりと呟いた。


「……あんま期待すんじゃねェぞ」
「―――!うん!ありがとう、お父さん!」


少女―――名前は、その幼い顔に満面の笑みをパッ浮かべた。
熊徹はこの顔に心底弱かった。

途端に気恥ずかしさのようなものに苛まれた熊徹は、部屋の隅に立て掛けていた大太刀と外套を手に取り家の外へと飛び出していった。
その後を追いかけたのは来訪者の一人である多々良のみで、多々良はその軽快な足取りで熊徹の後を追う。
もう一人の来訪者、百秋坊は、熊徹と入れ違うように家の中へと入った。


「良かったな、名前」
「うん!お父さんがね、お土産くれるかも」


名前の言葉で、熊徹が人間界に行くのだと百秋坊は理解する。

百秋坊の手のひらが名前の丸い頭を撫で、撫でられた本人は無邪気に笑った。

熊徹の空いた食器を台所へと引き下げようとすれば、慌てて残りを口いっぱいに詰め込んだ名前が百秋坊の後を追いかけてきた。
まるで栗鼠のように膨らんだ頬が愛らしい。
小さな手が抱える食器を引き取りながら、ゆっくり食べて良いと諭せば、大人しく元の席に座り口の中のものを咀嚼する。
従順と言うべきか、少女の世界がまだ自分自身の判断で動いていない危うさと表現すべきか。

もう何年も前のことだ。
ある雨の日の夜、熊徹が一人の少女を抱えて帰ってきた。
熊徹の腕にすっぽりと埋もれてしまう程の少女の顔は真っ青で、見る見る体温が下がっていき事態は一刻も争う状態だった。

多々良は「人間を連れてきたのか!?」と驚愕に震えていたが、人間だろうがバケモノだろうが構わないと吠えた熊徹の言葉に突き動かされたのか、雨の中町一番の医者を呼んでくれたおかげで事なきを得た。
あの数日は生きた心地がしなかったことをよく覚えている。

少女の纏うにおいが人間の纏うそれではなく、百秋坊たちと同じバケモノのにおいだったことに気付いたのは、事態が落ち着きを取り戻した頃だ。

そして、すっかり元気になった少女を熊徹が引き取ると言った時には、三日三晩額を付き合わせて会議をしたことも。

結局、熊徹だけでは不安なので三人―――主に熊徹と百秋坊で面倒を見るということで丸く収まり、それから6年ばかりの年月が経った。

名前が三人の前で初めて口を開いた時、ふざけた熊徹が「お父さんって呼んでみろ」とからかったせいで、以来名前は熊徹だけは名前ではなく「お父さん」と呼ぶようになってしまった。
本当の親子でもなんでもないと言うのに、その呼び方で何度も周囲から誤解を生んだが、今ではしっかりと浸透してしまっている。

昔を思い出すように名前の後ろ姿を眺めていた百秋坊は、懐古の息を吐いた。
あの頃に比べればすっかり大きくなったが、まだまだその体は幼く矮小だ。
尽きることのない使命感や庇護欲に、まるで本物の親になった錯覚すら覚える。
それはきっと、今頃人間界にいるあの二人も同じことだろう。


「百さん!今日、一緒にお買い物行こう!」
「―――ああ、そうだな」


朗らかな笑みを浮かべてこちらを振り返った名前に、百秋坊は感慨深く頷き笑みを返した。







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