夏の青々とした草木が目に眩しい。
この場所で蝉時雨を聞くと、8年前のあの日がつい昨日のことのように思い出されるようだった。

風に流れるふっくらとした雲を目で追いながら、夏の重たい空気に溜息を一つ。

そっと自身の胸に手をあて、名前は金色の睫毛を伏せた。


「―――胸の中の剣」


果たして、名前のなかにその剣はあるのだろうか。

名前はいまだに、熊徹との別れから立ち直れていない。
14年という長いようで短い時間を共に過ごし、本当の父として慕った存在なのだ。
"本当の父"とは違い、いなくなってしまったことを簡単に受け入れることは難しかった。

胸の中に剣があれば、もっと簡単に熊徹と別れることができたのだろうか。

名前が今一番問いかけたい相手は、もういない。


「名前」


ここにいたのか、と続けながら名前に歩み寄った男は、ふとその数歩後ろで立ち止まった。


「…私、真似する相手、いなくなっちゃった」


笑ったはずなのに、声は笑っていなかった。


「九太にも一郎彦にも、二郎丸にさえ勝てなくなっちゃったし、剣を持つのもそろそろ辞め時かなって考えてたの」


自身でも驚くほど饒舌に、次から次へと嘘が零れる。


「負けるのって悔しいもんね」


声が涙で詰まりそうになるのを、必死で堪えた。


「剣を辞めて、漢字読めるようになろうかな」


便利だもんね。


その一言は、不発に終わる。

肩に腕が回り、ぐるりと視界も回る。
首の後ろに回された手の平の熱に気付くよりも先に、いやに神経が研ぎ澄まされた唇が熱い。

以前見た睫毛よりもそれは短かく、触れた唇も少しかさついている。
それでも、つま先から頭の天辺まで、まるで引っ繰り返した砂時計の砂が溢れるように、言い知れない感覚で少しずつ満たされていくようだった。

無造作に跳ねる髪の毛の向こう側に、夏の青空が広がっていた。


「―――俺は、名前にもなったつもりでなりきる」
「………」


8年前よりも鋭くなった眼差しが、8年前よりも高いところからこちらを見下ろしていた。
肩を掴む手は大きく、名前の華奢な肩を覆い尽くしている。
その手から伸びる二の腕も太く逞しくなり、体つきも男らしくがっしりしている。

こんなにも変わってしまったのに、あの時と何一つ変わらないこともあるのだ。

その言葉を聞くのが、怖かった。
そして、それ以上に心の底から安堵していた。


「……泣いていいんだぜ」


傍の木で鳴いていた蝉が飛び立ち、夏の声が遠ざかる。

その声を追いかけるように、名前の慟哭が九太の胸に吸い込まれていった。

あの時には解らなかった。
泣きたくなるほど、親との別れが悲しいことを。
それは、熊徹が父親であることで満ち足りていたからだ。

けれど、熊徹はもういない。

その事実だけが、名前の心の中にぽっかりとした虚無感をもたらした。

子供のように声をあげて泣く名前を、九太はただただ黙って抱き締める。
哀哭に震える小さな体が、そのまま消えてしまいそうだと思った。


「つらいよな、親との別れって」


肩口に埋められた口元から零れる優しい声色が、剥き出しの耳朶を擽っていく。
低く澄み渡るその声に、少しずつ、それでも確かに騒いでいた心が凪いでいくのが解った。


「すぐに受け入れろなんて誰にも言わせない。こういうのは、時間が少しずつ解決していくんだ。最初は、悲しくて悲しくて堪らない。枯れちまうんじゃないかってくらい涙が出続けて、それでも当たり前に過ぎていく世界から、自分だけが切り離されたような気持ちになる。
 けど、いつの日かその悲しさが、ほんの少し小さくなる。ほんの少し小さくなって、だんだん平気になる。その平気になるのにかかる時間は、人それぞれだよ。
 ―――俺は、名前のその悲しみとずっと一緒に寄り添いたい。名前が平気になっても、ずっと、一緒に」


ぴったりと合わさった体を伝って、九太の心音が響くように伝わってくる。
とくん、とくん、と優しく脈打つそれは、まるで名前を落ち着かせるように動いている。

九太はもう、平気なのだろうか。
8年前、母親を亡くした九太は、もう平気なのだろうか。
平気だと言われても、悲しみが完全に消えるわけではない。

名前は、九太の悲しみにも寄り添いたいと思った。
一方的に寄り添われるだけでなく、自らも九太のそこに立ち続けたい。

いつの間にかおさまっていた涙に気付いた頃には、目元がひりひりと痛んだ。


「……私も、九太とずっと一緒にいたい……一緒にいたいって、ずっと言いたかった。
 ―――九太が好き」


精一杯背伸びをして、肩に置いていた手を首の後ろに回す。
少し汗ばんだ首筋が愛おしい。
踵を下ろせば、その首に絡まった腕に力が籠もった。

引き寄せた勢いで、九太がしたようにその唇に触れる。

驚いたのか、触れる直前に九太の口から吐息が漏れた。
背中に回っていた九太の腕が、強く名前の体を掻き抱いた。


「俺は人間界で暮らそうと思う」
「……うん」
「父親のところで暮らして、高認を受けて、大学に行く」
「……うん」
「それまでは、まだ何もしてやれない。
 けど、必ず名前を迎えに来るから―――それまで待ってて」
「……うん!」


九太なら、必ず成し遂げてくれる。
そんな確信が、名前のなかに息吹いていた。

九太の胸に手を伸ばせば、大きな手の平が名前の手を包み込む。

熊徹が眠るそこは、一際温かい気がした。


「置いてかないでね」
「するわけねェよ」
「約束して」
「ああ、約束する」
「私のこと、忘れないで」
「絶対ない。時々会いに来る」
「私も、会いに行きたい」
「頼むから迷子になるなよ」


九太の鼻先が、名前の額に降りてくる。

笑い合いながら、互いの存在を確かめ合った。

今日は街を挙げて九太を祝う日だ。
主役がいつまでもこんなところで油を売っているわけにもいかない。

名前は九太の手を握り、そろそろ行かないと、と示した。

歩き出そうとした名前を引き留めたのは九太で、一度名前の髪に触れて微笑む。
目を丸くした名前の手を今度は九太が握り、澁天街への道を歩き出した。

もう来ることはない稽古場に背を向けて、夏の日差しが照りつける石段を二つの影が通り過ぎる。

金色の太陽のなかで、翠玉の髪留めが柔らかに輝きを放った。







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