澁天街はお祭り騒ぎだった。
宗師の跡目を決める決闘の日よりも、街中がその盛り上がりを見せている。
バケモノたちにあれやこれやと握らされた食べ物を腕いっぱいに抱えて、名前は二郎丸の元を訪れていた。
「兄ちゃん、まだ目覚めてないんだ」
「そっか…」
案内された一郎彦の部屋を恐る恐る覗けば、広いベッドの上に横たわる一郎彦の白い横顔が見えた。
そんな一郎彦を囲むように、猪王山たちがベッドに撓垂れかかり眠りについている。
皆一様に、その顔には疲労の色が浮かんでいた。
名前を座らせるために椅子を持ってきた二郎丸もどこか疲弊した様子で、目の下の隈が一睡もしていないことを物語っている。
名前はベッドの脇に腕の中のものを起きながら、手近にあったブランケットを二郎丸の肩にかけた。
「一郎彦は私が見ておくから、二郎丸も少し寝た方がいいよ」
「そうか?なんの持て成しもできなくて悪ィな」
「ううん、気にしないで」
二郎丸の寝息が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
九太が一郎彦の闇を取り除いてから、一郎彦に会うのはこれが初めてだった。
否、一郎彦に大切なことを告げられた日から、まともに会うこと自体が初めてだ。
いつも何かから身を隠すように被られていた頭巾は、今は被ってはいない。
今思うと、あの頭巾は一郎彦が抱えるコンプレックスを体現していた。
牙が生えず鼻も人間のまま、そんな一郎彦の闇を隠す頭巾だったのだ。
名前は改めて一郎彦の寝顔を見つめた。
髪が伸び、声も低くなり、その代わり背は高く伸びた。
あの日見た通り睫毛はやはり長く、白い頬に影を落としている。
そっと手を伸ばし、目にかかった髪を払う。
青みがかった髪が指の隙間を抜け、するりと落ちていった。
今は伏せられているが、次に一郎彦が目を覚ます時は、どうかその目が青い目をしていますように。
そんな願いが脳裏を過ぎる。
「―――ん…」
持たされた果物の中から選んだ桃を食べやすいサイズに切っていると、名前のものではない、低く掠れた声が小さく響いた。
果物ナイフを置いてそちらを見やれば、真っ先に目に入った長い睫毛が震え、次第にその瞼が持ち上がる。
目を慣らすように数度瞬きした後、名前の気配に気付いたそれが緩慢な動きで傾げられた。
名前を映していたのは、澄んだ青色だった。
「…―――おはよう、一郎彦」
「名前…?どうして……僕は一体…」
泣きたくなるような、青色だった。
目を覚ました一郎彦は自身の頭に手をあて、必死にこの状況に至る経緯を思い出そうとしていた。
猪王山と熊徹の決着が始まった辺りからの記憶がない。
寝起きでいつもより覇気のない声がそう紡いだことに、名前は心の底から胸を撫で下ろした。
あんな記憶、ない方がいいに決まっている。
闇に乗っ取られていたとは言え、自身の手で熊徹を刺したことも、人間界を荒らしたことも、九太と対峙したことも、全部。
不思議そうに上体を起こした一郎彦に、名前は切ったばかりの桃が乗った皿を手渡してやる。
一郎彦はそれを素直に受け取ったが、口をつけず、静かに名前を見つめていた。
「名前に好きだと伝えたのも、僕の見ていた夢なのかもしれない…」
切れ長の目を伏せながらそう零した一郎彦に、一際大きく心臓が脈打った。
名前のなかであの日の出来事はなかったことにはできないし、けれど一郎彦本人はなかったことにしようとしている。
もしかすると、一郎彦と同じように振る舞うのが適切なのだろうか。
それとも、あの日の続きをするべきなのか。
人を好いた好かれたなどと言った経験の少ない名前は、ほとほと自らの適応力のなさを呪った。
名前がどうしようかと考え倦ねていると、それを見ていた一郎彦がふっと吐息を漏らした。
どうしたのかとそちらを見上げれば、息を飲むほどに綺麗な表情を浮かべた一郎彦の青とぶつかり合う。
「それでも僕は、何度でも言うんだろうな。君のことが好きだって」
結局、名前は一言も発することができなかった。
返事をしなければいけないとは、解っているのに。
九太のことが好きだと、きちんと伝えなければいけないということも。
それなのに、名前は声の出し方を忘れてしまったかのように、口を開閉させるだけだった。
「返事はしなくていい」
「え―――」
一郎彦の柔らかな香りが、鼻腔いっぱいに広がる。
外に跳ねた髪の向こうから、窓の光が木漏れ日のようにさしていた。
優しく抱き締めるこの腕は、一郎彦のものだ。
首筋に吐き出される吐息が擽ったくて仕方がない。
「…でも、まだ当分は名前のことを好きでいさせて。
二郎丸や…父上や母上のように、僕の心の支えになってほしいんだ」
そう言って抱き締める腕に力を込められれば、首を横に振ることなんてできない。
名前の性格をよく知っている一郎彦だからこそ、こうも狡い一手を打てるのだ。
案の定、肯定のみで固められた選択肢でハイを選んだ名前は、辟易としながらもその背中に腕を回して小さく頷いた。
最後に一郎彦とこうして笑い合ったのは、一体いつだっただろうか。
一郎彦の膝の上に乗ったままの桃の香りが、柔らかく二人を包み込んだ。