「九太!」
「なっ…名前!?」


名前の声に振り返った九太は、突然現れた名前に驚きを露わに立ち止まった。
どうやってここが、と言いかける九太を余所に、二人に駆け寄った名前は額に汗を滲ませて呼吸を整える。


「っ…もうすぐ、お父さんが来るの!それまで、なんとか時間を稼いで…!」
「アイツが?でも…」


不意に、三人の足下が青白く照らされ、コンクリート一面に水面のようなそれがじわりと広がった。
じっと目を凝らした名前の視線の先に、ふっと一郎彦の姿が現れる。
一郎彦の痩身が、消えるようにゆらりと揺れた。

突如、一郎彦が消えたところから鯨が跳ね上がり、三人目掛けてその巨体を傾ける。

逃げる先々に現れる鯨に、少しずつ行き場を失っていく。
名前は背中に背負った刀の紐を解き、刀袋まま両腕に構えた。


「一郎彦…!」
「ッ、よせ!名前!」


鯨が現れる手前のほんの数秒の間。
九太の制止を無視して一郎彦に駆け寄った名前は、姿を現した一郎彦に刀を振り下ろす。

それを受け止めたのは、形を変えた一郎彦の異形の腕だった。

怯むのも束の間、名前はびくともしない剣を握り締め、歯を食いしばる。


「っ…一郎彦、闇なんかに負けないで…!誰よりも強い…二郎丸自慢の一郎彦でしょ!」


頭巾で目元が隠れてよく覗えないが、その表情は虚ろに名前の方を見据えている。

少しでも気を抜くと、剣を振り払われそうだった。
背の差が顕著になり始めた頃から、一郎彦に勝てたことはない。
どれほどの技術をもって臨んだとしても、力で負けてしまうのだ。

じりじりと鼻先に向かって押し返される刀に、腕の筋肉が悲鳴を上げている。

薄らと、一郎彦の口元が弧を描いていた。


「一郎彦は一郎彦だよ!猪王山さんにとっても、二郎丸にとっても……私にとっても、大切な一郎彦に変わりない!」
「―――…っ」


刀を受け止める一郎彦の腕が緩み、押し進める感覚に脳が張り詰める。

けれど、見えた兆しも束の間。


「名前ッ!!」


一郎彦の姿が消え、代わりに名前の体が青い膜に包まれた。

息が詰まるほどに冷たい水中そのもののそこは、名前の視界と呼吸を奪っていった。
名前を飲み込んだ鯨は一度大きくかぶりを振り、その姿を弾けさせる。
水滴が散ったその拍子に、解放された名前の体が宙を舞った。

楓を少し離れたところに押しやった九太は、植え込みに足をかけて跳躍し、その体をしっかりと受け止めた。


「大丈夫か!名前!」
「ゴホッ…!きゅ、た…ハッ…」


九太の腕にしがみつきながら数度咽せた名前は、荒い呼吸もそのままに長い睫毛から滴を滴らせながら一郎彦を見つめる。


「……一郎彦、まだ、声…聞こえてる…」
「っ、ほんとか?」
「…うん…でも、私じゃ届かない…」


やはり、闇を斬るしかない。

そう確信した九太は数歩躍り出て、一郎彦に呼び掛けた。
見せつけるように腕を大きく開けば、九太の胸に一郎彦と同じ穴が現れる。

自身の空っぽの穴に一郎彦ごと取り込み、そして剣を突き立てれば、道連れにすることくらいはできるだろうか。

九太は一郎彦と対峙してから、ずっと思惑していた。
一郎彦を止める方法は、これ以外に浮かんではこない。
精一杯考えて、九太の手元に残った方法はこれだけだった。


「俺と一緒に消えてなくなれ!」


言葉と共に、九太の剣が抜刀された。

九太の胸に開いた穴は、鯨の姿となった一郎彦を少しずつ飲み込もうと大きく口を開ける。
傍から見ても、一郎彦が九太の穴に吸い込まれているようだった。

九太の真剣を目に留めた瞬間、名前は九太が意図することを察して目を見開いた。


「九太!だめだよ!やめて!!―――これ以上私の傍からいなくならないで!!」


名前の悲痛な絶叫を掻き消したのは、空から降り注いだ大太刀が、地面を抉る破壊音だった。

大太刀が降った衝撃で一郎彦は怯み、九太から間合いを取る。


「九太ァ!そいつは熊徹だ!」
「九十九神に転生して、その大太刀に姿を変えたのだ」
「これが…アイツ?」


名前が空を仰ぐと、建物の屋根の上でバケモノたちが列をなして三人を見下ろしていた。
先頭に立つ多々良と百秋坊は、九太と大太刀をしっかりと見据えている。

轟々と燃え盛るように輝いている大太刀に、名前は遂に両の目から大粒の涙を零した。
熊徹はもう、この世にはいない。
目の前の大太刀が、その事実をより一層名前へと知らしめる。
一度覚悟は決めたものの、やはり、直面してしまえば悲しみは止め処ない涙となって込み上げた。

熊徹はひとりでに宙に浮き上がり、九太の胸の穴に静かに入っていった。


「―――胸の中の、剣」


涙に濡れた声で、静かに呟く。
生前、熊徹が信念に掲げていたものだ。
九太の初めての稽古の日にも、唾を飛ばしながら訴えかけていた。


「キュッ」
「…チコ」


肩口から小さな鳴き声が聞こえ、そちらへと向けばチコが名前の顔を覗き込んでいた。
名前の肩にチコを乗せた楓が、心配そうにそこに佇んでいた。


「大丈夫?」
「…ありがとう」


肩に触れる楓の手が、温かかった。
名前は零れた涙を両手で拭い、九太の背中をしっかりと見つめる。

胸の中にいる熊徹と言い合いをしたのか、泣いてないと反論の声を上げる九太に襲いかかった一郎彦が目映い光と共に弾き返された。
その光景に、勝機が見える。

九太は自身の刀を構え、じっとその時を待った。

一郎彦が鯨になり跳躍する瞬間。

一郎彦の姿が現れる瞬間に、九太は勢いよく抜刀した。

粒子のような水滴が、九太の太刀筋を追う。

九太に斬り付けられた一郎彦の闇は、けたたましい悲鳴を上げて人間界の夜空に溶けていった。







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