走る速度に合わせて、背中に背負った刀が姦しい音を立てる。
真剣に触るのはいつ振りだろう。

澁天街は、静かだった。
こんなにも街が静かになることはない。

それもそうだ。
澁天街をあげて行った宗師の跡目を決める決闘で、人間のみが持つ闇を暴発させた一郎彦に熊徹が刺されたのだから。
今頃はきっと、宗師や元老院の元でこの混乱をおさめる解決の糸口を探しているに違いない。

名前は、人気のない澁天街を駆け抜ける。
垂れ幕の降りた市場を縫い、人間界の入り口を目指す。
途中、鉢植えや木箱に足を取られ転んだりもしたが、今はそれどころではない。

街頭や街明かりさえない暗い市場を抜け、ようやく入り口が見えてくる。

その手前まで辿り着いた頃、名前の足がぴたりと止まった。


「行くのか」


壁にもたれ掛かり、まるで名前の登場を待っていたかのように夜の帳に鋭い眼光を浮かばせていた。

男は行く手を塞ぐでもなく、ただ静かに道を示している。


「行くのか、名前」


艶やかな毛並みの尻尾が、一度だけ揺れる。

懐かしい声が紡ぐ名に背筋を伸ばした名前は、決して揺るがぬことのないそれで男を見つめ返した。


「はい―――賢者様」


賢者はその種故に鋭敏な双眸を細め、事態とは裏腹にとても穏やかな顔付きで名前を見据えた。

8年前、名前の過去を明かした千里眼の賢者が、暗がりのなかで月の光だけを許しそこに立っていた。

名前は背中の刀に結ばれた紐を握った。
賢者は壁から身を起こし、足音を感じさせない足取りで名前の目の前に佇んだ。


「お前の"目"ではっきりと見えたぞ。
 どうだ、バケモノになった気分は」


その問いかけに、名前が動揺することはなかった。

"あの日"の出来事もすべて受け入れると決めたのだ。

名前は背中から剣をおろし、すべてを悟るその目を見つめた。


「―――私は、人間として生きることを選びます」
「……ほう、道理は」


決して咎めるでも、嘲るでもない賢者の声が、夜の澁天街に霧散する。

あの日、緑が降り注ぐ森の奥深くで、賢者は名前の生い立ちを話してくれた。

見ていて楽しいものではなかっただろうに、それでも賢者は空白の3年間を名前に伝えてくれた。
そして、成長した名前を見て、心から喜びを噛み締めるように目を細めていた。

それから8年が経った今も、こうして名前の元に現れている。

この賢者には、胸の内をすべて打ち明けたかった。


「九太といたい―――ただそれだけです」


人間界の空気に気付かされ、熊徹に促され、その思いがようやく音となって吐息に乗った瞬間だった。

目尻に涙を浮かばせながら微笑んだ名前の言葉は、静寂の澁天街を駆け巡る。
取り零さないようしっかりとそれを受け取った賢者は、伏せていた視線を持ち上げ、金色のそれを一層輝かせた。


「それは背中を押すしかあるまいな」


8年前のあの日と同じように、賢者の瞳が細められる。

混じり合った視線がゆったりと頷き、名前は賢者の背中に腕を回した。
無礼なことだとは解っているが、今の名前を満たす温かな感情は、どうも言葉では言い表せそうにはなかった。

17年前に人間界に落ちた名前を見つけたバケモノは、賢者たった一人だった。
3年間、難色を示す中で名前を見守ってくれたバケモノも、今となってはこの賢者たった一人。
8年前に出会った際には、名前の成長に心底喜悦してくれた。
そして今、名前の後押しをするためにこうして舞い降りてくれた。

熊徹に向ける仁愛にも似たそれを伝えるには、名前の知る限りの言葉では伝えられそうになかったのだ。

幼いと思っていた少女の必死の抱擁に、賢者は喉を揺らし笑った。


「お前自身が誰かを必要とできて良かった」


名前の背中に、熊徹とは違う温もりを持った腕がしっかりと回された。

どうしてしまったのだろうか。
昔はあれほど泣くことがなかったのに、大人になると涙腺がめっきり弱くなってしまったようだ。
自嘲とも異なるそれで笑いながら、名前は賢者の羽織に顔を埋めた。





見知らぬ街を一心で駆け抜ける。
夜に染まった街は、今の澁天街とは一変、昼間のように明かりが灯っていた。
白いワンピースを翻すその背中に、刀を背負っているのだ。
擦れ違い様に向けられる好奇の目を、今は気にしている余裕などなかった。


「ねえ、なんか渋谷の方やばくない?」
「鯨のような影の目撃相次ぐ、だって」


履き慣れないサンダルで足が擦れようとも、名前はその足を止めない。

向かう先は、目と鼻の先に聳える建物だ。


「あの人の子―――九太の居場所を教えよう」


そう言って、賢者が教えてくれた九太の居場所を目指して走り続ける。

何を見るのかと問えば、九太が8年間澁天街にいたことと、九太の連れているチコの目を借りれば多少は見れるのだと千里眼を使ってくれた。
そして、示された場所は、もうすぐそこだ。

閉まっていたフェンスを跳び越え、階段を駆け上がれば、九太と少女―――楓の姿が目に飛び込んできた。







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