長い夢を見ていたような気怠さに苛まれながら、なんとか目を開くことができた。
まだ生きている証だ。

はっきりとしない視界で真っ先に捉えたのは、目元を真っ赤に腫らした名前の姿だった。
何やら百秋坊たちと神妙な話をしていたようで、消毒臭い部屋の空気はどこか重苦しい。

熊徹が目覚めたことに気付いた名前は、あの時から14年の年月を重ねた姿をしており、しかしその頃から変わることのない翠玉で熊徹を覗き込んだ。
熊徹はそんな名前の頬に手を伸ばし、丸みが目立たなくなった頬に添えてみる。
熱をもっているのか、温かくて気持ちがいい。

目覚めた時に傍にあってほしかった温もりに安堵し、次に気になるのは生意気な弟子の姿だった。

だだっ広い病室には自分を含め四人しかおらず、どこを探してもその姿は見当たらない。


「九太は一郎彦を止めに人間界へ行った」
「闇に取り込まれた一郎彦を相手にすんだ。これは九太でも骨が折れるだろうぜ」


多々良の言葉を聞いて、闘技場でのことを思い出す。
意識がなくなる手前に聞こえた笑い声は、間違いなく一郎彦のものだった。
自身の腹部に剣を突き立てたのもその声だ。

九太は、一郎彦と決着をつけようとしているのか。

居ても立ってもいられなくなり、痛む体を無視して上体を起こす。
当然三人には止められたが、そんなことなどに構っていられない。

九太には、まだまだ自分がいないと手放しで安心できないところがある。

横たわっていたベッドから三歩離れたところで、背中に衝撃が走った。
体中に響いた痛みに息が詰まるも、傷が開いた様子はない。
こんな遠慮のないことをするのは二人しかいない。
それも、その内の一人は今この場にはいないとなると、自分の背中にしがみつく姿は想像に容易い。


「―――お父さん…!やだ…!!」


百秋坊に叱られながらもしがみついてきた名前に視線を落とせば、両の目に涙を浮かべてこちらを見上げていた。
その様子は、今までに見たことがないくらいに切迫していた。
言動が8年前の幼さに戻るくらいに、取り乱している様子だった。

恐らく、今の名前が思い浮かべている事態は当たっている。

それでも、九太の元に行かなければならなかった。

でなければあの生意気な弟子はひとりきりなのだから。


「―――名前…」
「お父さん…行っちゃやだ…―――私を置いていかないで…!」


名前の双眸から落ちた雫が、音を立てて次々と床に弾けていった。

吐息のような名前の嗚咽が響く病室で、誰かが溜息を吐いた。


「……前に、ずっと父親でいてくれるかって、聞かれたことがあったな」


ベッドにもたれ掛かりながら、向かい合う形になった名前の体を抱き寄せる。
力なく腕の中に倒れ込んできた体は、背はあの頃より高くなったものの、華奢なことには変わりなかった。
そんな痩身を抱き竦めながら、不得意ながらに言葉を選びながら言葉を紡ぐ。


「お前が狼になったって聞いた時、嬉しかったぜ…そりゃ、ちっせェ頃から楽しみにしてたからな」


呼吸が苦しい。
意識も朦朧としている。

けれど、今一番辛いのは誰でもない名前だ。

遺されてしまう、名前なのだ。

すべて伝えるまで、耐えてくれと願うばかりだった。


「……なァ名前、お前は…お前にとって大切なモンを考えろ…それで出た答えなら、例えどんな選択肢だろうが、人生になろうが…俺は父親として、誇らしい」


腕の中で大人しくしていた名前がふるりと震え、気付けば胸にその顔が押し付けられていた。
「号泣だな」なんて力を振り絞って笑ってみれば、これでもかと言わんばかりに涙で濡らされる。


「名前の幸せが俺の幸せだ」
「……―――うん、っ…うん…!」


漸く、愛しい声が聞こえてきた。
くぐもってはいたが、確かにそいつは何度も頷いていた。

もう一度、抱き締める腕に力を込めてみる。
恐らく、これが出せる最後の力だ。
背中に回った名前の腕も、これでもかとしがみついてきた。


「―――お前の選んだ行き先がアイツなら、俺はアイツの傍にいる。
 だから、サヨナラじゃねェだろ」


その言葉を最後に、名前が満足するまで胸を貸した。

百秋坊と多々良の鼻を啜る音が聞こえてくるが、今は抱き締めた名前から目が離せない。

名前は理解しているのだろう。
"アイツの傍にいる"という言葉の意味を。

姿形がなくなるということは、名前にとっては死に同等するのかもしれない。

止まる気配のない涙を零す名前に、心の中で一度だけ謝罪する。
名前自身の傍にいてやることができなくてすまない、と。
口ではああ言ったものの、やはりこうして悲しい思いをさせてしまうことは申し訳なく思う。

昔から、名前の涙にはめっきり弱かった。

泣かれれば折れて、今思い返せば名前が得してきたことの方が多数ある。

惚れた弱みともまた違うが、とにかく昔から変わることなく名前への思いは何一つ色褪せることがない。
これからも、だ。


「名前が娘でよかった」


そう言って丸い頭を二度軽く叩けば、また翠玉に水膜が張る。
たぶん、今は何をやっても泣くんだろう。

名残惜しむように胸へと顔を埋めた名前は、数分そうした後、体を離して深呼吸を一つ。

目を腫らしながらも、覚悟を決めたような鋭い眼差しだった。

一刻自らの髪に触れて手を握り締めてきた名前は、百秋坊と多々良に目配せをしてそのまま病室を飛び出していった。


「またね!お父さん!」


出て行く間際に残されたそれは、しばらくの間耳の中で木霊のように反響していた。

最後まで目を離そうとしなかった名前の後ろ姿が蘇る。
あの日、雨に打たれていた幼い頃の姿も、成長したその後ろ姿を追って病室を転がるように出て行った。

本当に、子供の成長は早いものだ。


「……おう、宗師様ンとこに連れてってくれ」


百秋坊と多々良に振り返れば、何を言っているんだというような顔をされた。
長い付き合いなら、それくらい予想しておいてほしいものだ。

やけに高い天井を一度だけ仰ぎ、歯を噛み合わせたまま言葉を漏らす。


「―――愛してるぜ」


目頭が熱くなるのは、一体いつ振りだろう。

手に握らされた髪留めは、名前のように温かかった。







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