連日の雪を溶かすような雨が、朝から降りしきっていた。
痛いくらいに肌を刺す冷たさを孕んでいると言うのに、そんな雨が雪に変わらないのが不思議だった。

いつもは賑やかな澁天街も、そんな日ばかりは閑散としている。

人気のない住宅街を、大きな体が雪沓ゆきぐつを鳴らしながら駆け抜けていく。
その足取りは、一秒でも早く目的地に辿り着かんとするそれだった。

脇目も振らずに走り続けていた男は、長く伸びた石段を苦もなく駆け上がると、転がるように一軒の家へと飛び込んだ。
男本人の家ということもあり、扉を開ける勢いも容赦がない。
そんな風に扉が開いたものなので、家の中で寛いでいた二人は目を丸くしながら扉に注目せざるを得なかった。


「どうした熊徹、そんなに慌てて―――」


僧の装いをした男は、濡れ鼠となった熊徹の肩に手拭いを乗せながら言葉を詰めた。
熊徹は自身の肩に乗せられた手拭いを乱暴に手繰り寄せ、腕の中を包み込むように巻き付けていく。


「百秋坊、コイツ死ぬか」


手拭いを巻き付けたそれ―――顔を真っ青にさせた少女が、息も絶え絶えの様子で熊徹に抱かれていた。


「お前…人の子ではないか…!」
「ハァ!?熊徹お前ェ、とんでもねェモン拾ってきちまったな!」


熊徹の腕の中を覗いた二人は、とんでもないことだと言いたげにその獣の顔を歪める。
それでも熊徹本人は四つの非難するような眼差しをもろともせず、再度百秋坊に詰め寄った。


「ンなこた今はどうでもいい!コイツ死ぬのかって聞いてんだよ!」


少女の小さな口から吐き出される息は今にも消えそうなほどに弱々しく、顔の青白さも尋常ではない。
熊特有の剛毛に覆われた腕に抱かれていたと言うのにも関わらず、体温も下がりきっており、誰の目から見ても少女が危険な状態であることは言うまでもなかった。

少女の顔に張り付いた髪を払いのけながら冷え切った体温をこれ以上下げまいとする熊徹の姿に、多々良は自棄になった声を上げながら家を飛び出していく。

その数分後、一人の医者を連れて戻ってきた多々良は、酷く雨に打たれていた。

医者に言われるまま家中の手拭いをありったけ掻き集めた三人は、水を打ったように静まり返った居間で各々思惑していた。

少女はこのまま死んでしまうのだろうか。

視覚からの印象で人の子とは言ったものの、あれは果たして本当に人の子だったのだろうか。
冷静になって思い返してみれば、確かに人の見た目ではあったものの、微かに纏うにおいはバケモノのそれと同じだった。

そもそも熊徹はあの少女をどこで見つけてきたのだろうか。

次から次へと溢れ出る疑問や焦燥に蓋をするように、医者がのそりと奥の部屋から顔を覗かせた。
真っ先に駆け寄ったのは熊徹で、乱暴な足音が家を僅かに揺らす。


「アイツは!?」
「軽度の低体温症だったが、もともと衰弱しているようだった。あと少し遅かったら、事態は深刻化していただろう。…熊徹、お前のおかげだ」


このまま適切な治療を続ければ、直によくなる。


そう言って微笑みを浮かべた医者の言葉で、止まっていた心臓が動き出すような感覚さえ覚えた。
目に見えて肩から脱力した熊徹の後ろ姿に、百秋坊と多々良は目を合わせずにはいられなかった。

熊徹が身元の知れない少女を家に連れ帰って数日後。
低体温症の次は高熱に浮かされ、苦しそうに寝込んでいた少女が遂に目を覚ました。


「オイ、お前ェ!目ェ覚めたか!」
「バカ者。まだ完治したわけではないのだ、声の大きさを考えろ」


数時間前に帰って行った医者の口から「明日、明後日には完全に熱も引くだろう」という言葉が聞けたことも相俟ってか、熊徹は病人に向けたとは思えないほどの声量で少女を覗き込んだ。
それを咎めた百秋坊は少女の額の上のタオルを取り替えながら、熊徹とは打って変わって努めて優しく声をかけた。


「気分はどうだ」
「………」


少女のつぶらな瞳が熊徹と百秋坊の姿をじっと捉えて放さない。
物憂い、困惑、潜考。
そんな色を浮かべながら、ただただ黙って二人を見つめている。

無理もない。
少女の生きてきた世界では決して見られない容姿をした二人にじっと見つめられているのだから。

少女から返事が返ってくることに期待をしていなかった百秋坊は、多々良に知らせてくる、とその場を熊徹に任せた。

くれぐれも大声を出すなと注意された熊徹は、こちらをじっと見つめる瞳に若干の居心地の悪さを感じながらも少女へと話しかけた。


「お前、なんであんなところにいた」
「………」
「どうやってこの世界に来たんだ?」
「………」
「…おとっつぁんやおっかさんはどうした」


一度も熊徹を離さない瞳の色は、綺麗な翠玉の色をしていた。

翠玉に捉われたままの熊徹は何はさておき一通りの質問を試みるも、どの問いに対しても少女の口から声が漏れることはなかった。
流石の熊徹も白旗を揚げそうになる。

もしかすると、言葉が話せないのかもしれない。
それとも、耳が聞こえないのか。
そんな定かではない仮定が浮かんでは消えていく。


「―――くまさん」


溜息を吐きかけた時、少女の弱々しくも高い声が響いた。
思わずそちらを見やれば、心なしか輝いて見える少女の双眸が熊徹を見つめている。

こちらに伸ばされた手が、ひらひらと熊徹の前で揺れた。

数秒思考を巡らせた後に同じように手を伸ばしてみれば、小さな手が熊徹の小指をしっかりと握り締めた。
小さくも、しっかりと温もりが戻った手だ。
覚えず息が詰まる。

少女は興味深げに熊徹の小指を何度も握り、自分のものとは違うそれを楽しんでいるようだった。


「…怖くねェのか?」
「ううん、だって、くまさんだもん」


金色の短い髪が、さらりと揺れる。

自分よりも遙かに小さい少女は、臆することなく無邪気な笑顔を浮かべていた。


「お前、名前、なんてんだ」


捕まれた小指をそのままに問いかければ、少女は動きを止めて熊徹を見上げた。


「―――名前です」


舌足らずにそう紡がれた名前が、熊徹の耳の中を柔く通り抜ける。
言葉に出さずに、一度二度、喉元で反芻させてしっかりと馴染ませた。


「…名前か。ま、悪くねェな」


翠玉を見つめ返す赤色が、薄らと細められる。

それはどこか、慈愛の色さえ見取れるようだった。







×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -