一郎彦を助けると言って九太が出て行ってから、どれくらいの時間が経っただろう。
たいした時間は経ってないのだろうけれど、それほどまでにここでは時間の感覚が麻痺してしまう。
いまだに深く意識を失ったままのお父さんの姿を見ていると、特に。

目にかかった長い髪を撫でながら規則的に落ちる点滴の輸液パックを眺めていると、背後で扉の開く音がした。


「九太は行ったぞ」
「―――うん、知ってるよ」


九太を引き留める。
そう言って九太の後を追った百さんと多々さんが、二人だけで病室に戻ってきた。

九太は、一郎彦のことを放っておくことはできないと言っていた。
同じ人間として、同じ闇を持つ者として、他人事にはできないと語ってくれた。


「俺が闇に飲まれなかったのも、名前のおかげだよ」


そう言って私を抱き締めた九太は、どこか覚悟を決めたような表情を浮かべていたのを思い出す。


「一郎彦に続くわけじゃないけど、俺の気持ち、聞いて。
 ―――名前が好きだ。8年間、ずっと」


その時の九太の顔ときたら、今までに見たことのない大人っぽいそれで、真っ直ぐに私を見つめていた。
そして、私の返事も聞かずに病室を出て行ってしまった。
おかげで私はしばらく考えが纏まらなかっと言うのに。

九太が私を好き。

その一言を聞いた時から、自分でも驚くほどに胸の中の靄が晴れていった。
悩みの種は、ずっと私のことを見ていたのだから。

お父さんの手を握りながら、九太の最後の姿に祈りを捧げる。

どうか、無事で。


「"自分を育ててくれたたくさんの人たち"…か」
「そん中に俺たちも入っているとはな」


涙の面影を見せる声で、百さんと多々さん感慨深げに呟いた。
別れ際に九太に言われた言葉だと言うことは聞かなくても解る。

百さんと多々さんは、足繁く熊徹庵に通ってくれた。
私がお父さんに育てられることが決まった日から、ずっと。
雨の日も風の日も、時間が許す限り。
九太の言った言葉は、私にとってもその通りだと頷けるものだった。


「面倒見てやってるのに、ありがてえなんて顔ひとつしねェで」
「それが気付いてみたらあんなに大きくなって」
「いっぱしの口をききやがるんだから」
「―――誇らしいのう」
「……誇らしいぜ」


最後の二人の言葉に、笑みが零れる。
九太は本当に成長した。
同い年の私から見ても言えるくらいに、目紛るしい成長だ。

8年前の九太を思い浮かべながら一つずつ思い出を辿る私の背中に、唐突に、百さんの声がかかる。
返事もそこそこに肩越しに振り返ると、百さんだけではなく、多々さんまでもが真面目な表情のまま私を見据えていた。


「名前、お前に話しておきたいことがある」


お父さんの手を握った私の手が、僅かに強ばった。


「お前ェの種についてだ」


なんとなく、そうだと直感した。

些か姿勢を正した多々さんの言葉に、私は黙って二人の言葉を待った。


「8年前、千里眼の賢者から話を聞いたあの時、名前と九太を先に舟に乗せたことは覚えているな」
「……うん、覚えてる」
「賢者は言っていた。
 ―――お前の心次第かもしれない、と」


私の心次第。


その言葉に、心当たりを指摘されたようにどきりと心臓が跳ねる。

百さんに続いた多々さんが教えてくれた。

生まれてからの3年間、人間の世界で人間に育てられた私は、少なからずその頃の記憶が自分でも知らないところに残っている。
バケモノになれないのは、その頃の記憶が邪魔をしているからかもしれない、と。

バケモノになりたいと心の底から願わない限り、バケモノになれることはないかもしれないと言うことを。

私は、あの日のことを思い出していた。

九太が、九太自身の本当の世界―――人間界に行ってしまうという焦りが生まれた日。
人間界で経験した人間の恐ろしさを思い出し、肌が粟立ったあの日。

あの時の私は、確かに人間である自分を拒絶した。

そして、狼の耳と尻尾が現れたのだ。

その時以来―――九太という人間とバケモノである自分の狭間で揺れていると感じた時以来、私はまた一度もバケモノになれていない。

賢者様の憶説は、あながち間違ってはいないのかもしれない。


「選ぶのは自分だ、名前」
「手前ェの人生は手前ェで決めるもんだからな」


そう言って目を細めた二人の姿に、なぜだか無性に泣きたくなった。


「―――ありがとう、百さん、多々さん」


不意に、握っていたお父さんの手がぴくりと動く。


「…っ、お父さん!」


二人に振り返っていた顔を咄嗟にお父さんへと向ければ、焦点の合わない双眸が私を見つめていた。

百さんと多々さんがベッドの傍に駆け寄る足音が、背後から聞こえた。


「お父さん…!よかった…!」
「…名前、か…」


縋っていた大きな手がするりと抜けて、私の頬を包み込む。
手の平の温度は酷く下がっていて、いつものお父さんから感じられる体温はどこにもなかった。
それでも目を覚ましてくれたことが嬉しくて、私は頬に触れるそれに手を重ねた。
目尻から零れた涙が、お父さんの手の平に馴染んでいく。

大怪我を負っているのに私を慰めてくれたお父さんが、緩慢な動作で病室をぐるりと見渡した。


「…アイツ、は…」
「九太は一郎彦を止めに人間界へ行った」
「闇に取り込まれた一郎彦を相手にすんだ。これは九太でも骨が折れるだろうぜ」


お父さんの眉が、ぴくりと動く。


「…アイツには…俺がいねェと…」
「おい熊徹!無理すんな!」
「…いま無理しなきゃ、いつ無理すんだよ…!」


譫言のようにそう呟きながらベッドから身を起こしたお父さんを、多々さんと百さんが取り押さえる。
そんな二人の制止をもろともせずに、お父さんの大きな体はベッドから少しずつ離れていった。

お父さんは、九太のところに行くつもりだ。

そう理解するが早いか、私はお父さんの体にしがみついていた。
百さんの「傷が開く!」という怒鳴り声も、今の私には聞こえなかった。


「―――お父さん…!やだ…!!」


死んでしまう。


そんな不吉なことが、なぜか脳裏に浮かんで離れなかった。







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