大太刀を手にした男が、俺の姿を視界に入れるなり唾を飛ばす。


「九太ァ!遅い!遅い遅い遅い遅い!何やってんだ、稽古するぞオラァ!」


なんだ、元気そうじゃん。


いつもとなんら変わりのない熊徹を見て、俺は安堵に肩を竦めた。

そして、はたっ、と思惑する。


そう言えば、この男は―――。





青空が暗転し、どこからともなくチコの鳴き声が響く。
重い意識を持ち上げるように目を開くと、俺を起こそうとしていたらしいチコが腕に乗り上げてきて、何かを訴えるようにその視線を彷徨わせる。

チコの視線を辿るよりも先に、気を失う前の光景がフラッシュバックした。

音を立てながら起き上がれば、その物音に気付いたらしい名前が涙に塗れた面を弱々しく持ち上げた。


「九太…よかった、目が覚めたんだね」


名前の言葉もそのままに、俺はソイツから目が離せなかった。

その体に比例するかのような大声と、それを助長させる口の悪さ。
不機嫌そうに顔を歪めたかと思えば、たまに子供のように無邪気に笑う。

いつもの様子がまるで幻のように感じてしまうほど、呼吸を弱く繰り返す熊徹が痛々しい姿のままベッドに静かに横たわっていた。

気を失う直前の記憶に薄らとあるあの悪夢のような光景が、夢でなかったのだと痛感する。

目頭を焼き付けながら込み上げてくるそれに、自然と頭が垂れる。
名前の前だから、コイツに怒られるから、と泣き声を噛み殺すことは難しかった。


「九太…一郎彦が消えちゃった…」


俺が落ち着きを取り戻す頃、名前の震えた声がそう紡いだ。

一郎彦や俺の胸に現れた穴の正体は人間のみが宿す"闇"の具現で、一郎彦はその闇に取り込まれて姿を消したと言う。
俺は名前やチコのおかげで闇を拒絶することができたが、一郎彦は闇を拒絶できずにその人格さえ浸食されているようだった。

熊徹の腹に剣を突き刺す一郎彦の姿が一瞬蘇り、慌てて頭を振る。

不意に、扉の外からいくつかの声が聞こえてくる。
そっと扉に近付いて様子を窺えば、一郎彦の家族と宗師がそこに集まっていた。

宗師に促された猪王山が、一郎彦について静かに語り始めた。

一郎彦は、猪王山が人間界で拾った人間の赤子だった。

人間は心に闇を宿すことを猪王山は知っていたが、自分が育てれば大丈夫だろうという慢心で一郎彦を連れ帰り、我が子のように育てた。
種族の違い故、一郎彦は猪王山のような鼻や牙を持たない。
大きくなるにつれ、猪王山とは違う容姿に疑問を抱くようになった一郎彦を、猪王山はそれでも家族だと言い聞かせた。

バケモノの子供だと言い聞かせれば言い聞かせるほど、一郎彦は自分自身を信用することができなくなり、闇を深くしてしまったのだと宗師が言った。

澁天街の空気や、一郎彦とを取り巻く環境が、あれほどまでに穴を大きくさせてしまった。

その言葉に、俺は自身の胸に手を当てる。
心当たりがないわけではなかった。


「―――どうしよう…!」
「…名前?」


か細く空気を震わせた声に振り返れば、大粒の涙を流す名前に違和感を覚えた。
取り乱したような様子を放っておけるはずなどなく、ベッドを回り込んで名前の肩を抱く。
細い肩が、酷く震えていた。


「どうしたんだよ」


一頻り泣いたからか、それとも宗師たちの会話を聞いたからなのかはわからないが、俺の声は驚くほどに落ち着いていた。
名前は俺の顔を一度も見ようとはせず、膝の上にいくつも染みを作っていた。

不安がある時や悲しい時、いつもの名前なら真っ先に飛び込んでくると言うのに。


「……私、一郎彦のあの顔…知ってたの…」


あの顔、と言うのは、闇を持った時のことだろうか。

一郎彦の瞳は青い。
名前のものよりかは青々しいが、それでも綺麗な色だと思ったことがある。
そんな一郎彦の目が、金色に輝いていたことを思い出す。

名前が言う"あの顔"とは、恐らくそのことだ。

しかしなぜ名前が"あの顔"を既に知っていたのか、ということがこの場における最大の疑問点だ。

刺激してしまわないように努めて優しく「話して」と促せば、一瞬躊躇ったように言葉を詰めた名前がぽつりぽつりと話し始めた。


「―――私ね、狼になったあの日に、一郎彦と話したの。
 ずっとなりたかった狼になれたのに、嬉しいっていう気持ちよりも、どうしようっていう気持ちの方が大きいって」
「………」
「そしたら一郎彦がすごく怒って……なんだか、一人で抱えるには重たすぎるようなものを抱えてるみたいだったの…」
「あいつが…」
「だから、私の悩みを打ち明けたら…一郎彦も悩みを打ち明けてくれるんじゃないかって思って…言ったら…―――」


不意に、名前の言葉が不自然に途切れる。
思わずその顔を覗き込みそうになったところで、名前の方から顔を上げて俺の目をしっかりと捉えてきた。
けれど何を言うわけでもなく―――何かを言いたげに口を数度開閉させていた―――、また静かに顔を伏せて膝の上で拳を作った。


「―――…好きって……私のこと……」


ざわ、と胸が騒いだ。

名前は口元に手をあて、吐き出すように胸の内を吐露する。


「一郎彦が闇に取り込まれてしまったのも…私のせいかもしれない…!」


その時の一郎彦と名前の間になにがあったのか、細かいことまでは知れない。
名前のせいじゃない、とも、そうかもしれない、とも言えないことがもどかしかった。
少なくとも、バケモノになりたいと渇望していた一郎彦の前で、バケモノになれたことを喜べなかったことは要因の一つだろう。
しかし、たった一度のそれだけであそこまで暴走するとも思えない。

恐らく名前は、掻い摘まんでその時のことを説明してくれたに違いない。
語られていない―――名前が語りたくない部分にも、本質があるような気がした。

それでも今の名前は、自分を責め立てているに違いない。
だって、自分の言葉で一郎彦の胸に闇が宿るところを目の当たりにしているのだから。
名前は昔から、誰に対してもそういうやつだ。

俺はそっと細い肩を抱き込み、落ち着かせるように背中を叩いた。


「―――今は、一郎彦を助けることだけ考えよう」


一郎彦を助けなければならない。

意識の戻らない熊徹を一瞥して、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。







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