猿のような身軽さで大太刀を手にした熊徹は、猪王山と剣を交ぜる。
熊徹の怪力で振り下ろされる刀と、猪王山の見事な太刀筋で振り下ろされる刀がぶつかり合う度に、観客の心臓を震わせるような振動が響いた。

九太はまるで猪王山と対峙しているかのように体を動かし、一寸遅れて熊徹が九太と同じ動きを演じる。


「―――…よかった」


それを後ろで見ていた名前は、自らの視界が歪むのを感じて指の背で目元を拭った。

熊徹は、8年前のあの時のように一人で戦ってはいない。
九太と共に戦っていたのだ。

玉のような汗を滲ませながらも、浮かべられた熊徹の笑みがそれを物語っていた。


「押し込まれんな!競り負けんな!馬鹿力出せ!」


よりいっそう響いた九太の声に押されるように熊徹が振りかぶった大太刀が、猪王山の刀とぶつかる。
刹那、触れ合ったそこから少しずつ猪王山の鞘に亀裂が走った。

鞘は砕け散り、研ぎ澄まされた刀が闘技場に差し込む日差しに反射した。


「ここ!!」


鞘が割れたことに怯んだ猪王山の隙を突き、熊徹が大太刀を放り投げ、右足を大きく蹴り上げる。
猪王山も咄嗟に握った刀を振り下ろすも、熊徹の右足がその腕を蹴り、弾かれるように猪王山の刀は宗師の座る席目掛けて吹き飛んだ。
猪王山の刀は、宗師の頭上を掠めて椅子の背もたれに突き刺さっていた。

先に体勢を整えた熊徹の拳が、猪王山に向かって突き出される。

猪王山も反撃を試みるも、猪王山の拳が熊徹に届くよりも、熊徹の拳が猪王山の顔面を力強く叩く方が先だった。
痛々しい打撃音が、競技場に反響する。

ふらふらと数歩後退した猪王山が力なく地面に崩れ落ち、それを皮切りに闘技場は再び静寂に包まれた。
審判長の二度目の秒読みが行われる。

皆一様に固唾を飲んで見守る中、審判長の秒読みが十拍を示した。

猪王山の体は、まだ地に伏せたままだった。


「勝負は決した!―――熊徹!」


力強く響いた勝敗の結果と共に、熊徹に勝ち鬨が上がった。

今日一番の歓声が空気を割き、幾多もの紙吹雪が風に乗って競技場に舞い降りる。


「名前!」


歓喜のそれを満面に浮かべた九太が大きく振り返り、離れたところで立ち尽くす名前に両腕を広げた。

いまだに呆然としているのか、名前は瞳を揺らしながら目の前の光景を眺めている。
そんな名前にもう一度腕を広げ直した九太は、目を細めながら歯を見せた。

弾かれるように飛び出した名前はそのまま九太の腕の中に縺れ込み、熊徹へと身を乗り出した。


「お父さん…!お父さん…っ、おめでとう…!」
「おーおー、随分と泣き虫になったじゃねェか名前」


泣き虫が嫌いと豪語する熊徹の前で、唯一涙を流せるのは名前だけだ。
遙か昔に言われた言葉を思い出しながら、九太は熊徹の首にしがみついてわんわんと泣く名前に目を細めた。

名前とは打って変わり、九太の言葉と言えば、勝利を祝う言葉でもなく、労るような言葉でもない。


「……ヒヤヒヤさせんな」
「心配しろなんて頼んでねェよ」
「よく勝てたもんだぜ」
「勝つに決まってるだろ」
「バカ言え、ヘロヘロだったくせに」
「うるせェ」


いつもの応報を交わした二人は、腕を伸ばし宙で手を打ち合わせた。

熊徹を見据える九太の眼差しが、伝えたい全てを乗せて熊徹を捉えている。
それを受け取った熊徹も、言葉なくただ笑みを零していた。

新しい宗師が決まった。

観衆は予想外の展開に驚きながらも、それもひとしおと言わんばかりに喜悦に染まっていた。
熊徹が、初めて大勢のバケモノに勝利を称えられている。

幸せに満ちた空気に拍手をしていた名前の動きが、ふっと止まる。
自然と目をやってしまったのは、猪王山の弟子たちに用意された区画に座る一人の人物だった。
静かに佇むその人物は、どこか言いしれようのない雰囲気を纏っているように感じる。

その人物の胸の辺りに、一瞬、大きな穴のようなものが名前の視界に映ったのだ。

その人物から目を離せずにいた名前は、次の瞬間、弾かれるように熊徹に向かって金切り声を上げた。


「お父さん危ない!!」
「えっ…」


名前の鋭い咆哮と、九太の手から熊徹の手が離れたのはほんの僅かの差だった。

熊徹の足の間に、ポタリ、またポタリと赤い雫が滴り落ちる。
その赤は熊徹の動きに沿って広がり、地面の色を染めていった。


「この…赤ェのは何だ…え?名前…九太…どうなってんだ」
「ッお父さ―――」
「アハハハハ!!」


名前を遮るように轟いた笑声は、愉悦に歪んだ色で競技場を震わせた。


「父上!私の念動力と父上の剣で勝負をつけました!あなたの勝ちです!
 あんな半端者に、父上が負けるわけがありませんからね!」
「―――いちろう…ひこ…」


目の前の光景に首を振った名前は、自身の父親の背に剣を突き刺した本人―――一郎彦を見やった。

今までどうやって一郎彦を見つめていたのか、今の名前では思い出せない。
振れる視界のなかにいる一郎彦は、本当にあの一郎彦なのだろうか。
一郎彦の皮を被った、別の何かなのだろうか。

優しい笑みを浮かべる一郎彦と入れ違うように、目を金色に輝かせたあの時の一郎彦が浮かび上がる。


「そうだろ、九太…―――そうだろ!」


見据えた先で、名前の記憶と同じように二つの目を金色に塗り替えた一郎彦が柄を握り直すように手を伸ばし、熊徹の腹に刺さったままのそれを強く押し込んだ。
熊徹の腹を貫いて、切っ先が現れる。

短く呻き声を上げた熊徹が、静かに地面へと落ち項垂れた。

恐怖に戦く悲鳴。
纏わり付く一郎彦の笑声。

ぴくりとも動かない、熊徹。

右も左も、上か下もない。
自分がどこを向いているのかすらわからない感覚に苛まれながら、名前は目の前の熊徹を見ていた。
否、何を見ていたかさえも、解らなかった。


「見たか九太ッ、ざまあねェ!いいか!勝者は我が父猪王山だ!」
「バカ者!そんなことが認められるか!」


呆然と立ち尽くす名前を動かしたのは、憎悪に塗れた一郎彦の声でも、猪王山の怒声でもなかった。

九太の肩から飛び移ってきたチコに髪を引っ張られれた途端、肌を刺す禍々しい風がすぐ隣から吹いていることに気付いた名前は驚愕した。


「九太っ…!?」


開ききった瞳孔で一郎彦を見据える九太の目が、赤く染まっていた。
名前の声が耳に届いていないのか、どこからともなく吹く風に煽られていた九太の胸が不自然に膨らみ、服を押し開いて現れた"それ"に肌が粟立つ。

先程名前が一郎彦に見た、黒い穴だった。

穴が現れるのと同時に九太の腰に提げられた剣が音を立てて震え、刀と鞘を結んでいた紐がぷつりと千切れる。
九太の手は動いていないと言うのに、金属の擦れる音を奏でながら鞘から刀が抜かれ、日の光を浴びたことのない真剣がその姿を現した。
誰にも触れられていない刀はひとりでに宙に浮き上がり、その切っ先は一郎彦へと向けられていた。


「―――よくも…よくも…!!」
「九太!闇を拒絶せよ!」


宗師の制止の声は、届かなかった。

九太の咆哮と共に刀は勢いよく飛び、一郎彦目掛けて宙を切り裂いた。


「九太!だめ!!」
「うぁ…っ!」


九太の穴を塞ぐようにその体へと名前が飛びついたのと、チコが九太の鼻に噛み付いたのは同時だった。

九太が我に返ると胸の穴は瞬く間に塞がり、乱舞していた剣も一郎彦の鼻先でその動きを止め地面に転がる。
苦しい程に自身にしがみついた名前を見下ろした九太は、朦朧とする意識のなかでその金色にそっと触れた。
金色がビクリと震え、恐る恐る九太を見上げる青とぶつかる。
九太の目の色が元の色に戻っていることに気付いた名前は、その顔を歪めて九太の胸に顔を埋めた。


「九太……お前……許サナイ……」


九太の胸の穴は消え去った。
だが一郎彦の胸の穴はまだ積怨に渦巻いており、それは少しずつ空中に広がり、終いには一郎彦の姿を粒子に変えてしまった。

二郎丸の、一郎彦を探す声が虚しく響いた。

酷く体力を消耗したのか、息も絶え絶えな九太は名前にもたれ掛かるように崩れ落ちる。


「何…寝てんだよ…」
「九太!?九太、しっかりして!」
「…起き…ろ…」


「九太―――!!」







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