堪らずに飛びついてきた名前を受け止めた腕は、本当に逞しくなったとしか言い様がない。
危なげなく名前を抱き留めた九太は、しがみつく名前の背中に腕を回す。


「九太だ、九太だ…!」
「俺じゃなかったら誰だよ」
「九太…!ごめんね…っ、ごめんなさい…!」


しきりに謝る名前に、気にしてない、と九太は首を振った。

胸の辺りに添えられた名前の手を握り締めれば、ようやくその顔が持ち上がる。
九太が見たくてしかたのなかった顔だ。
涙が溜まったそこを指先で拭いてやり、しがみついて離れない名前に苦笑いを零す。


「俺も、名前に会えなくて寂しかった」


そう言って、その白い首元に顔を埋める。
擽ったかったのか、涙に濡れた吐息が震えていた。

傍を通りがかる人たちが、何事だと言わんばかりにちらちらと二人に視線を送っていたが、そんなことは今は微塵も気にならない。


「どうして戻ってきたの?」


名前がそっと九太から離れ、丸い瞳を持ち上げた。
決して咎めるものではなく、純粋な疑問としてぶつけられたそれに、九太は気まずそうに視線を泳がせる。
こうして問いかけてきている本人の父親のため、などと素直に言うのもなんだかむず痒いものがある。
なぜなら名前は、熊徹と九太の"普段の様子"を十分に知っている一人なのだから。
8年間、口を利けば言い合いに発展してきた師匠の応援に来たと言うには今更恥ずかしい。

九太が言い淀んでいると、その長い睫毛を一度瞬かせた名前が口元に弧を描いた。


「―――ありがとう」
「ハア!?べ、別に俺は…!」
「戻ってきてくれて」


もしかすると、かまをかけられたか。
そんな疑問が九太の脳裏を過ぎった。

そんな九太を他所に、無邪気に笑った名前は白魚のような指を闘技場に向けた。


「行くんでしょ?」
「…しかたねェな」


そう言って九太が僅かに胸を張れば、名前は堪えきれないと言った様子で声をあげて笑った。

やっぱり、名前は笑っていた方がいい。

ワンピースの裾を翻して競技場へと急かす名前を見て、九太は愛おしむように目を細める。
やはり名前は向日葵のようだ、と思った。

あの服を見た瞬間、九太の頭を名前の笑顔がいっぱいに満たした。
名前の青い瞳は夏空、白いワンピースは夏雲、そして、名前の金色の髪は太陽。
夏の空の下で揺れる、裾にプリントされた草花。

それを纏う名前は、夏の花―――向日葵のようだった。


「名前」


一人で先々と競技場に向かおうとする名前を呼び止めれば、草花と向日葵がふわりと踊りながら九太を振り返る。


「かわいい」


指では名前の耳の上にある髪留めと服を示しながら。
はにかむように笑った名前は九太を手招き、差し出された手に自分の手を重ねた。





競技場は、多くのバケモノで溢れていた。

それもそうだ。
澁天街を長年束ねてきた宗師が引退し、その後釜に入る者が決まる日なのだから。

宗師は言った。
何の神に転生するか迷いに迷った結果、決断力の神に転生することにしたと。
その言葉に会場が沸き、闘技場の空気を少しずつ熱気が包み込む。

熊徹の弟子だけが座ることを許された区画には座らず、少し離れた席を選んだ九太に、名前は何も言わずに大人しく隣に座った。
それどころか、ドキドキするね、なんて言いながら興奮した様子で宗師たちを見つめている。
九太は肩を竦めながら自らの頭にフードを被せ、決闘の開始を待った。


「これより、澁天街の新しい宗師を決する儀式を行う。
 ―――候補者は前へ!」


審判長の言葉に次いで、それぞれの入場口から弟子を引き連れた候補者―――猪王山と熊徹が現れる。
猪王山の後ろについて歩く一郎彦の姿に、名前は心臓が大きく脈打つのがわかった。

緊張感を高めた面持ちの猪王山の弟子たちに対し、頻りに辺りを見渡しぽかんと口を開けている熊徹の弟子たちの間抜けなこと。
熊徹の大太刀はそんな弟子の一人が持っているが、本来ならばあそこには九太が立っているはずだった。

遠くから見る熊徹の表情は読めず、なにやら多々良に耳打ちをされている。


「お父さん、どうしたのかな…」


刹那。
会場に木霊する声援を物ともしない熊徹の咆哮が轟いた。
熊徹の自己を奮い立たせる叫喚に感化された猪王山の咆哮も後に続く。

会場の熱気はピークだった。

人々は立ち上がり、拳を振り上げて新たな宗師の誕生の瞬間を待ち侘びていた。


「作法に則り、刀は鞘に仕舞ったまま使用すること。抜くことは許されない。
 逃げた者は負け、または十拍のあいだ失神した者は負け。
 その他、作法規則を遵守すること。
 ―――両者、用意」


劈くような歓声が嘘のように静まり返り、両者がそれぞれの構えに入る。

相手から目を逸らさず、二人はその時を待った。

名前は握り締めた両手をそのままに、肺に空気を溜め込む。





「始め!」





ワッと立ち上がった歓声のなか、熊徹は一目散に猪王山に駆け寄った。

いまだ構えたままの猪王山の手前で体を獣化させ、猪王山目掛けて拳を振り下ろす。
後退しながらも取り零すことなく攻撃を受け止める猪王山の腕からは、鈍い音が何度も響いた。
それは、熊徹の一撃一撃の重みを表している。


「アイツ、スタミナのことなんか考えちゃいねェ!」
「すごい…!」


九太と名前が呟くのは同時だった。
反対側の観戦席の壁に、熊徹の渾身の一撃を受けた猪王山が吹き飛ばされた。

立ち込める砂埃を纏いながら再び闘技場の中央へと歩み寄った猪王山は、ようやくその腰から剣を抜く。
構わずに猪王山へと突進する熊徹を鋒で往なしながら、熊徹と猪王山の押し問答は続いた。

熊徹が押しているように思われた戦況は一転、二人が交差した際に流れが変わった。

擦れ違い様に猪王山の一撃を受けた熊徹の獣化は解かれ、普段の大きさに戻った姿が地の上で軽く痙攣していた。
名前は思わずハッと息を潜め、前のめりになって目の前の光景に齧り付く。

次に動いたのは、猪王山だった。

やおら立ち上がる熊徹目掛け、獣化した猪王山が文字通りの猪突猛進を繰り広げる。
体勢の整っていない熊徹は慌てて大太刀を構えようと藻掻くも、焦りに邪魔をされ腰まで下がってしまった大太刀の紐を上手く体から外せないようだった。
そうしている間に目の前まで迫った猪王山の体は容赦なく熊徹を弾き飛ばし、その反動で大太刀が遠く離れた地面に転がった。

九太が小さく声を漏らした。

なんとか立ち上がった熊徹は大太刀を拾おうとするも、獣化した猪王山の巨体がそれを許さない。
大太刀と熊徹の間合いに入り、熊徹に躙り寄る。

猪である猪王山は、得意の体当たりを熊徹に何度も繰り出すことでその体力を奪っていった。
何度もその巨体を受けた熊徹は見るからにボロボロで、立っているのもやっとのように見受けられる。

周囲の空気が猪王山の勝利を確信したと同時に、猪王山の最後のひと突きが熊徹の体を宙へと放り投げた。


「お父さん!」


名前の悲鳴が、歓声に飲み込まれる。

観衆は一斉に立ち上がり、猪王山の勝利を待ち侘びた。
審判長の秒読みが、一拍ずつ響き渡る。

地に伏して少しも動かない熊徹の姿に、名前は思わず九太の腕にしがみついた。


「九太お願い!お父さんは九太のこと、ずっと待ってたの!今でも九太のことを待ってる…!だからお願い…お父さんを―――」


返事の代わりに名前の頭に手を乗せた九太が不意に立ち上がり、観戦席の最前列へと躍り出る。
縁に立ち上がった熊徹の一番弟子の姿に、観客の響めきが一斉に九太に向けられる。
少し離れた場所から、百秋坊や多々良の九太に縋る悲願の声が聞こえた。


「何やってんだバカ野郎!とっとと立て!」


九太の怒号が、鳴り止まない歓声を押さえ込んだ。

九太の言葉に背中を押された熊徹は、見事復活を成し遂げた。
本人はきっとそれを否定するだろうが、名前はそうだと確信している。

そこから熊徹の猛反撃は始まった。







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