名前が纏っていた服は、九太が名前に贈った白いワンピースだった。


「ほう、なかなか粋なものだ」
「アイツもセンスあるじゃねェか」


裾を広げた名前を見て、百秋坊と多々良は九太に拍手を送った。
その九太は、ここにはいない。

名前が狼の姿になった日の夜、九太は熊徹庵を出て行った。


人間の学校に通いたい。


それが、熊徹との言い争いのきっかけだった。
しかしその時の言い争いはいつもの口論とはわけが違い、事態は大きく変わっていく。

九太の話を真面目に取り合わない熊徹の態度に愛想を尽かした九太が、熊徹の許可なく家を飛び出す際に告げた一言は、熊徹だけではなく百秋坊や多々良にも衝撃を与えた。

九太の父親が見つかったのだ。

その父親の元へ行くと言った九太は、熊徹を置いて人間界へと消えていった。

名前がその話を聞かされたのは、その翌朝のことだった。
百秋坊の神妙な面持ちを見て、話を聞く前に名前は事の詳細を理解してしまった。
想像していたものと違った名前の反応に驚いた百秋坊だったが、事情がありそうだとその話題には触れないように蓋をして、よく冷えた茶を名前に差し出してくれた。

九太が出て行った日から3日が経った。

宗師の一言で時期が早まり、熊徹と猪王山の決着が本日執り行われることになった。


「お父さん」


稽古場で一人佇む熊徹の後ろ姿に声をかける。
こちらを振り向くことはしなかったが、その表情は手に取るように解った。

名前は熊徹の横に並び、少し視線を落としてワンピースの裾の模様を見つめる。

伸びた影の凹凸の差は、8年の月日を持ってしてもあまり縮まらなかった。


「お父さん、今日、頑張ってね」
「…おう」
「勝ったらお祝いしないとね!大根炊いて、卵かけご飯もあったら嬉しい?お父さんの好きなものなんでも作るから」
「名前」


同時に、熊徹の太い腕が名前の頭に回される。
熊徹の胸に顔を埋めるようになった名前は、しばらく熊徹の呼吸に押し上げられた。


「―――無理すんな」


お父さんこそ。


そう紡ぐはずだった言葉は、嗚咽に紛れて夏の空気に流れていった。

止め処なく溢れる涙はそのままに、名前は熊徹にしがみついて涙を零した。
年甲斐もなく声を上げ、沸き上がる感情をすべて押し出すように泣きじゃくる。
その間、熊徹はずっと名前を抱き留めていた。

微かに漏れる嗚咽は、蝉時雨に重なるようにして響き渡った。


「ねえ、お父さん」


名前が落ち着いた頃、鼻声になってしまったそれで熊徹を呼ぶ。
心なしか腹を括ったような声色に、熊徹はしっかりと名前に向き直った。

目を真っ赤に腫らした名前が、熊徹を真っ直ぐに見据えていた。


「なれたの、バケモノに」
「なッ―――…」
「でもね、今はなれない」


思いもよらない告白に、熊徹は僅かに目を見開いた。

しかしあの日以来、耳や尻尾が生えることはなかった。
偶然だったのだろうか。
それとも、何かきっかけがあったのだろうか。

名前の説明通り、熊徹の目の前に居る名前もよく見知った名前の姿だ。

ふと、熊徹の脳裏に、8年前の賢者の言葉が思い返される。


名前の心次第、かもしれない。


熊徹は人知れず溜息を吐き、名前の頭に大きな手を乗せた。


「で、お前はどうしたいんだ」
「……わかんない」
「そうか、ならゆっくり考えろ。焦る必要はねェ」


狼になりたいのか、今のままでいいのか。
その選択肢を問いかけたところで、名前の顔を見ればだいたい検討はつく。

案の定、予想していた言葉が返ってきたので、熊徹はすでに用意していた言葉で背中を押した。

名前は次第に表情を明るくさせ、熊徹を見上げて笑った。


「お父さん、大好き」


熊徹の手が、名前の頭の上で二回跳ねる。
好きだの大好きだの、気恥ずかしくて口に出すことのできない熊徹の精一杯の返答だった。
熊徹の手の平の下で、8年前にラールに贈った髪留めが光る。

熊徹に打ち明けたことで、胸の内が少し軽くなったように感じた。





準備のため少し早くに闘技場へと向かった熊徹たちを送り出してから数時間。

名前は庭先の長椅子に座り、ふと、一郎彦のことを思い出した。

一郎彦とも、あの日以来一度も顔を合わせていない。
どんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。

一郎彦に触れられた唇に指を這わせれば、あの時の熱が蘇るようだった。

九太のことを好きだと自覚したその日。
九太ではない相手に唇を奪われたと言うのに、どうしてか名前は一郎彦を拒絶できなかったのだ。

一郎彦に対する気持ちと九太に対する気持ちは、確かに違うはずだ。

考えれば考える程に纏まりがなくなり、名前はそれを振り払うように立ち上がり闘技場へと向かった。

祭りの日のような盛り上がりを見せる広場に、沈んでいた心が明るくなる。
普段は見ないような出店を横目に通り過ぎたところで、名前の軽かった足取りが止まった。
目と鼻の先に居る人物も名前に気付いたのか、少し驚いたようなそれで振り返る。

そして、あの時の出来事が何もなかったかのような微笑みを浮かべた。


「―――似合うじゃん」


たった3日会っていなかっただけだと言うのに、名前は九太の姿にどうしようもなく泣きたくなった。







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