九太を追い出した名前は、その足跡が聞こえなくなった頃を見計らって小屋を飛び出そうとドアを開けた時。
つま先に何かが触れ、反射的に視線を下ろす。

見たことのない文字が書かれた袋が、足元に鎮座していた。

人間界で見た、数名の人間が手にしていたような袋だ。
名前の頭には今し方追い返したばかりの九太の顔が浮かび、おさまったはずの涙で再び視界が歪む。

涙を堪えながら袋をゆっくりと袋を覗けば、人間の服がそこに収まっていた。

恐る恐る、手に取って広げてみる。

名前の手によって広がった服は、真っ白なワンピースに形を変えて風に揺れた。


「―――きれい…」


裾の辺りにはいつか見た花畑そのままの風景が施されており、蝉の鳴く今の季節らしい、と直感で感じた。

腕にかけた袋の底には赤いベルトが一本束ねられた状態で眠っており、九太が描いたであろう絵が添えられている。
ベルトの使い方を示した紙だった。
細身のそれは、赤色ということも相俟って、九太の腰帯を彷彿とさせた。

名前は、ワンピースを掻き抱いた。

声にならない声で、九太の名を二度、三度と呟く。
誰にも拾われないそれは、夏の風に乗って霧散した。

ようやく顔を上げた名前は、一旦戻った寝床の上にその服をそっと置き、市街地の方へと足を向けた。





宛てもなく彷徨い、辿り着いた先の階段にそっと腰を下ろす。
人気のない広場を横目に、膝に顔を埋める。

昔、名前が一郎彦に剣の教えを請い、剣の基礎を身につけた場所だ。
名前はこのグラウンドで剣の握り方を知り、九太は二郎丸との間に友情を結んだ。
色々な思い出がある場所だ。

一郎彦に剣の稽古をつけてもらっている幼き頃の自分の姿が、フェンス越しに見えるようだった。

17になった名前は、今では殆ど剣を握っていない。
九太を巻き込んでいた稽古ですら、月に一度あればいい方だ。

剣を握ることが嫌になったわけではない。
ただ、仕方のない"違い"を見せつけられ、自信を失してしまったと言うべきか。

意味もなく、名前は自身の手の平を眺めた。


「こんな所でどうした」


そんな声と共に、気配がすぐ隣に腰を下ろす。
現れた人物によって視界が遮断され、幼き頃の自分の姿が消えていった。

名前が悩んでいる時、この気配はいつも真っ先に名前を見つけてくれた。
今だってそうだ。
名前自身でもやり場に困っているそれに気付き、多忙だというのにこうして駆けつけてくれる。

その優しさが嬉しく、時に申し訳なく思えた。


「今日は珍しく髪を下ろしているんだな。―――…」


中途半端に言葉が途切れたことを不審に思い、名前はそっと顔を上げて隣の人物を見やった。


「……泣いているのかと思った」
「……泣いてないよ」


青い瞳が青い瞳とぶつかり合う。

名前の目尻に涙が浮かんでいなかったことに安堵したのか、一郎彦はふっと表情を緩めた。

一郎彦の口元には普段から襟巻きがしっかりと巻かれていたが、名前の前での一郎彦はいつもその端正な素顔を晒している。
切れ長の目に長い睫毛、筋の通った鼻は高く、背もすらりとしていて九太よりも頭の位置は高い。
そんな一郎彦を放っておく者がいるはずもなく、彼の後ろには幼い頃から女の子が付いて回っていた。
いつの日だったか、初めは女の子かと思ったと告げれば、頬を膨らませて怒っていた。
何事も完璧にこなす一郎彦でも、子供らしいところもあるんだと笑ったものだ。

名前の口元が懐かしさに弧を描く。


「一郎彦って、私の種のこと覚えてる?」
「狼、だったか」
「うん。
 ―――なったんだ、さっき」


一郎彦の膝の上で、彼のしなやかな手がぴくりと動いた。


「耳と尻尾が生えただけなんだけどね。…でも、確かになった」
「………」


顔にかかる髪を指先で弄りながら、名前は先ほどのことを思い出しながらゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私、ずっとバケモノになりたかった。澁天街のみんなみたいなバケモノに、ずっとなりたかったのに…―――なりたかったはずなのに…なんでだろう、狼になったとき、すごく動揺した」


その時の名前をぐるぐると戒めていたものと言えば、喜びや感動などではなく、戸惑いや焦りの感情だった。

何をそこまで焦燥する必要があったのかもわからない。
理由すら見つからなかったと言うのに、名前は鏡に映った自分の姿に恐怖していた。


「今は元の姿に戻ったけど、またいつ狼になるかわからない―――…私はそれが怖い」
「ッ…」


力強い指先が、名前の肩に掴みかかる。
あまりの強さに思わず息を詰めたと同時に肩を引かれ、一郎彦と向き合わされた。


「―――なんだよ、それ」
「一郎彦…?」
「なりたかったバケモノになれたってのに、怖いだ?元の姿だ!?ふざけんじゃねェぞ!!」


捕まれた肩が背後の壁に押し付けられ、言葉の節々で打ち付けられる。
名前の顔が苦痛に歪もうとも、一郎彦の手は止まらなかった。
肩を掴む腕に手を添えたところで、名前の力では敵うはずもなかった。


「やだッ痛いよ!一郎彦、やめて!」
「俺が…喉から手が出るほどに求め続けた形を手に入れたってのに…お前は……お前がッ!―――なんでッ…!!」


名前は、一郎彦の言葉に眉を顰めた。

一郎彦の動きが止まったかと思うと、その震えた体が名前に撓垂れかかる。
この重みは怒りなのか、それとも。

激しく打ち付けられた背中に息を荒げながら、名前は自身の肩に顔を埋めた一郎彦に恐る恐る手を伸ばした。

名前の指先がその頭に回り、一郎彦を落ち着かせるように上下に動く。


「……一郎彦は、なにを抱えてるの…?」
「………」
「私には、言えないこと?」
「………」


一郎彦の無言を肯定と受け取った名前は、それから何も言わずに一郎彦を受け止めた。
首筋にかかる吐息が、心なしか震えている。


「―――…九太がね、私じゃ決して踏み入れられない世界に居場所を見つけたの」


一郎彦の肩が、ぴくりと跳ねる。

それに気付くことのなかった名前は、赤く染まり始めた空を見上げた。
恐ろしいほど赤く彩られた夕焼け空を見ていると、どこか違う世界に吸い込まれてしまうような気さえした。


「私…どうしたらいいんだろう……九太に行ってほしくないのに、なんにも言えないの。
 私の"狼"が、それを邪魔してる…―――九太に、す」


劈くような蝉時雨が降り注ぐ。
風にさらわれた髪が、ふわりと揺れた。

名前は目を見開いたまま、はっきりとしない輪郭の一郎彦を見つめる。
伏せられた睫毛は、やはり嫉妬しそうなほどに長かった。
首の後ろに回された手の平の熱さに、溶けてしまいそうな錯覚さえ覚えた。


「―――僕は……僕は名前が好きだ」


名前から身を離した一郎彦の零した呟きは、あまりにも痛切な色を纏う。
立ち去った一郎彦の青い目が、なぜか金色に輝いていた。

つい先程、数秒前のことが、夏の暑さが見せた幻のように思えた。

名前は壁にもたれ掛かり、熱を持った指先で唇に触れる。

一郎彦に口付けをされた。

その事実だけが名前の頭を占め、バケモノになった兆候も、九太とのいざこざもすべて消え去っていた。


僕は名前が好きだ。


去り際に残された一言が、名前を縛り付ける。

ふらふらとした足取りで帰路についた名前は、そのまま寝床に倒れ込み気を失うように眠りについた。
九太がくれた服を下敷きにしてしまっているような気がしたけれど、それさえも今はどうでもよかった。

気怠い意識のまま見た夢のなかで、名前の唇に触れていたのは、一郎彦ではなく九太だった。







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