今まで一度も辿り着くことのなかった人間界への扉は、なんの前触れもなく開かれた。
まあ、順序を守れば簡単に行けるらしいのだが、その順序とやらを教わったことのない俺にしてみれば偶然の産物以外のなにものでもない。
8年振りに見る人間界は、変わっているように見えてあまり変わっていなかった。
微々たる変化はあるのだろうけど、ざっと見て把握できるような変化はそれほど見受けられなかった。
渋谷の繁華街や住宅街、よく行った図書館も、当時の面影のままそこに残っていた。
図書館になんとなく入り、なんとなく手にした本を読んでみる。
字が殆ど読めないことに、どこからともなく焦燥にも似た気持ちが込み上げてきた。
たまたま近くにいたやつに読めない漢字の読み方を訊ねれば、その女は丁寧にも教えてくれた。
そんな女―――楓との出会いをきっかけに、俺は楓に文字を教わることになった。
文字だけではない。
数学―――俺のなかでは算数で止まっていたので、呼び方も変わることに驚いた―――や社会や理科と言った、小学校から中学校で習うすべてのことを教えてもらった。
いや、教えてもらって"いる"。
毎日アイツの目を盗んで人間界へと赴き、例の図書館で勉強を教わる。
そんな日々を送るようになり、数日が経った。
知らないことを知れる喜びで当初は浮かれていたが、そんな生活に慣れてしまえば、長年の"当たり前"が恋しくなる。
名前に会いたくなった。
会っていないわけではなかったが、確実に前よりも言葉を交わす回数は減ったし、顔を見る機会も格段に減っている。
俺の1日のルーティンと言えば、起床・飯・稽古・勉強・夜遅くに帰宅、と言った内容なので、仕方がないと言えば仕方がない。
一度意識してしまえばその欲求は強さを増すばかりで、集中できていないと楓に指摘されてしまった。
珍しいこともあるんだね、と笑う楓を見て、昨日のことを思い出す。
昨日、俺は楓に連れて行ってもらった服屋で、人間界で過ごすのに適した服を購入した。
名前にも、何か服を贈りたい。
俺が勝手に抱いているであろう気まずさを誤魔化す口実とするため、俺は楓に女物の服屋に案内してもらった。
人間界で生活していた頃ですら踏み入ったことのない領域で、名前に似合いそうな服を見繕うのはなかなか骨が折れた。
楓とはタイプが違う上に、色―――店員曰く、パーソナルカラーと言うらしい―――も違う。
こればかりは楓に答えを求めることも出来ず、店を出たのはそれから2時間が経った頃だった。
根気強く付き合ってくれた楓には頭が下がる思いだ。
稽古の前に渡そう。
そう思い、鞄の奥底に仕舞い込んでいたそれを取り出し、台所で昼食を作っていた百さんに名前の行方を問う。
名前の小屋にいるが…と、妙に言い淀む百さんに軽く礼を言い、家の裏側に回り込んだ。
「ッ、違う!!」
「―――ラール!?」
突如、悲鳴にも近い叫声が聞こえ、俺は慌てて名前の小屋へと走った。
そして、そこで見た光景に、動きが止まった。
名前の一部が、狼のそれになっていた。
耳と尻尾。
手足や皮膚や顔は人間のままで、今まで一度も現れなかった耳と尻尾だけが、名前がバケモノであるということを象徴していた。
名前自身も驚いているのか、姿見を食い入るように眺めている。
髪の毛と同じ金色の耳と尻尾は、今はしっとりとした色をしていた。
きっと、太陽の下に出たら綺麗なんだろうな。
怖いとは思わなかった。
「―――名前」
「っ!?」
名前の息を呑む声が、ここまで聞こえてくる。
動揺を露わにした様子でこちらを振り返った名前は、唇を震わせながら荒く呼吸を繰り返していた。
ああ、牙も生えていたのか。
いつの日か、まだ幼かった頃の名前が言っていた。
狼になれたら、お父さんたちに教えてあげるね、と。
あの時は待ちきれないと言わんばかりに顔を綻ばせていたのに、今の名前は、どうしてそんなに苦しそうな表情をしているのだろうか。
俺は一歩前に出て、名前に向かって手を伸ばした。
「なれたんだな、狼」
「………」
髪を割って生えた耳に手を這わせれば、その体が小さく跳ねる。
目を固く瞑り、それはどこか震えているようだった。
「狼ってかっこいい印象だったけど、名前だとなんか違うな」
「……どういう意味?」
「…―――かわいい」
少し迷って、素直に告げた。
かわいい。
それは、名前に対して幾度となく抱いた感情だ。
何度感じても、何度伝えてもそれが色褪せることはなく、むしろ強さを増していく。
案の定真っ赤になった名前はすっかり俯いてしまい、赤くなった鼻先が前髪から覗いた。
「でも、よかったな」
「…え?」
「狼になれて。
早くなりたがってたわけじゃなさそうだったけど、ずっと楽しみにしてただろ」
「う、うん…そうだけど…」
なんとなく、次の言葉は言ってはいけない気がした。
「これで堂々と澁天街で生きていけるな」
名前は何も言わなかった。
代わりに、俺を見上げる目の色が、青色ではなくなっていた気がした。
「―――…に…それ…」
虫の鳴くような声が、ひやりと肌を撫でる。
相変わらず名前の表情は窺え知れなかったが、体の震えが変わっていた。
気付いた時には、俺の上に名前がのし掛かっていた。
人間のままの手が、俺の胸に爪を立てる。
「ッ、名前?」
「なに、それ…なにそれ…!なにそれ!」
「な―――」
瞳の色を赤くした名前が、俺を見下ろしていた。
「九太の居場所は澁天街なのに…お父さんと私のところなのに…!
なのに…人間界にも居場所見つけて…全然こっちにいないし……」
名前の額が、俺の胸に埋まる。
胸にかかる名前の吐息が、酷く熱かった。
「…―――九太は、人間界で生きていくんだ?」
自嘲するように吐き捨てられたその言葉に、俺は何も言えなかった。
名前が、何かに悩んでいる。
痛いほどに立てられた爪先に、なぜかそう思えてならなかった。
今まで一度も苦痛に感じたことのない静寂が、鋭く肌を刺していく。
「……ごめんなさい」
震える声でそう告げられたのと同時に、俺にのし掛かっていた重みが身を引いた。
それを追うように上体を起こせば、そこには耳も尻尾もなくなった名前がいた。
いつもと同じ青い目が、悲しそうに細められている。
「…今日はもう…九太の顔、見れない」
「名前―――」
「出てって」
そう言って俺の背中を推した名前は、錆び付いた音を立てながら閉まるドアに隔たられた。
閉まるドアの向こう側に見えた傷ついた顔が、胸に引っかかって離れそうにない。
「……名前」
ぽつり、と名を紡ぐ。
口にしただけで、首筋がじんと熱くなった。
俺は手にしたままだった袋をドアの前に置き、整わない心のまま稽古場を素通りして、人間界へと向かった。