代わり映えのない平穏な日常の中で、何か一つ変化があったとすれば、それは間違いなく九太を取り巻く環境だ。
意図せず人間界に降り立ってしまった日の出来事が、何度も何度も頭のなかで繰り返される。
建物の森。
走る鉄の塊。
喧騒。
図書館という場所での出来事。
楓という少女。
"蓮"と名乗った、私の知らない九太。
頭から被ったシーツのなかで、あの日の光景を徹底的に頭の中から排除しようと躍起になる。
あの日以来、九太の姿を見かけることが少なくなった。
稽古はきちんとこなしているみたいだけれど、稽古が終わるや否や脱兎の如く熊徹庵を飛び出して、夜遅くに帰ってくる。
そんな九太の行動をお父さんは不審がっていたけれど、どこで何をしているかまでは分からないようで、尻尾を掴み損ねていることに地団駄を踏んでいた。
九太は恐らく、人間界に赴いている。
その場面を見届けたわけではないけれど、絶対にそうだと言い切れる自信があった。
けれどそのことをお父さんに言えるわけでもなく、そして九太を引き留められるわけでもなく―――引き留める理由がない―――、どうしようもなく苦しい時間だけが過ぎていく。
そうしている間に月経が襲来し、私は自室の寝床から抜け出せないでいた。
今朝に比べると体調もだいぶ快復したけれど、腰の痛みで動けそうにない。
私が日中から自室に籠もる日は月経痛が酷い時くらいなので、そんな時は誰もこの小屋に用もなく訪れようとしないし、家事を怠ることも咎められない。
九太がいない今、恐らく家事を代行してくれているであろう百さんに、頭の中で何度も頭を下げた。
「……苦しいよ」
何が。
無意識に漏れた言葉に、自分自身でハッとする。
"苦しい"が意味するものは、なんだろうか。
自分自身のことだと言うのに、月経痛のことではないことくらいしか解らない。
"苦しい"という言葉を心の中で呟いた時、浮かび上がってきた事柄は二つあった。
一つは九太。
足繁く人間界へと通い、楓という女の子に文字を教えてもらう九太。
自らを"九太"ではなく"蓮"と名乗った九太。
私の知らない人間界に、少しずつ自身の居場所を見出そうとしている九太。
苦しい。
すごく苦しかった。
目頭が熱くなり、肺の辺りが痙攣を起こす。
九太の顔が見たい。
九太と話がしたい。
九太に触れたい。
そこまで考えて、はたと思考が回転した。
しばらくして、自分自身の鈍感さ苦笑いが零れた。
けれど、今更どうしろと言うのだろうか。
昔に比べれば随分と知識もついた方なのに、こればかりは答えが見つかりそうにない。
九太が好き。
思い返せば、今更かよ、と多々さんに笑われても可笑しくない行動の数々が蘇る。
顔中が燃えるように熱くなり、体を覆っていたシーツを剥ぎ取った。
「―――なんだ」
九太のことが好き。
ならば、私は九太に言いたいことががたくさんある。
寂しい、話したい、九太に傍にいてほしい。
これが言えたら、どんなに幸せだろう。
子供の我が儘そのものの言葉を、頭を振ってシャボン玉のように弾けさせた。
そこで視界に入ったのは、この小屋が建った日に百さんがくれた姿見だった。
腰の不快感に苛まれながら、私はそっと姿見に近付いた。
無機質なそこに手の平をあてれば、吸い付くようにぴたりと合わさる。
鏡に映る、自分の顔をじっと見つめる。
人間のような肌。
人間のような鼻。
人間のような耳。
人間のような手足。
人間界で見た人たちと、何一つ変わりはなかった。
8年前、賢者様は確かに私を"狼の子"と仰った。
人間との合いの子だけど、狼の血は―――バケモノの血は確実に流れている、と。
私は大人になった。
二郎丸にだって、立派な牙が生えている。
私は、なんで人間の姿のままなんだろう。
鏡の中の自分が、酷く青ざめていた。
「…いやだ…」
私はバケモノだ。
狼の血が流れている。
私は、お父さんたちと同じバケモノだ。
人間界で捕まれた二の腕の感覚に、ぞわりと嫌悪感が走る。
苦しい。
「―――違う…!」
私を捨てた母の顔が、歪に笑った。
「ッ、違う!!」
今までに感じたことのない感覚が、つま先から頭の天辺を貫く。
驚きで乱れた呼吸を整え、なんだったのかと顔を上げれば、手をついたままの姿見が視界に飛び込んできた。
「っ…!?」
その姿に瞠目する。
頭部から生えた、尖った耳。
唇から覗く、小さくも鋭い牙。
腰の辺りで揺れる、金色の尻尾。
手足や肌、顔には人間のそれを残したまま、ほんの一部だけが、狼に変化していた。
いつもはきちんと結い上げている髪をそっと掻き上げれば、見慣れた耳がなくなっていた。
その動線上にある耳はきちんと聴力をもっていて、僅かな音でもしっかりと拾い上げていた。
艶やかな尻尾も、私の意思で自由に動いている。
「おお…かみ…」
不完全ではあったけれど、今の私は、狼のもつ外的特徴をいくつも携えていた。
紛れもなく、狼だ。
狼になれた日には、真っ先にお父さんたちに知らせようと、何度も何度も考えていた。
それなのに。
私はなぜか、その場から一歩も動けなかった。
「―――名前」
聴覚も鋭くなったはずなのに、いつの間にか現れていた九太が、私を驚愕の眼差しで見つめていた。