図書館を後にした九太と名前は、いまだ人間界を彷徨っていた。
正確には九太の思い出の地を巡っているのだが、どちらにしても名前の眉は顰められたままだ。


「―――そろそろ帰るか」
「ほんとに!?」
「喜びすぎ」


9年しか人間界にいなかったのだ。
九太にとっての思い出の地はたかが知れており、巡り終えるのにそう時間はかからなかった。

澁天街に帰ろうと踵を返し、通ってきた道を追い抜いていく。


「こいつ1年ん時からウザくて、みんなに無視されてんの」


静かな住宅街に反響した声に、九太の歩みが止まる。
つられて名前もそちらへと目を向ければ、図書館で九太に文字を教えてくれた少女が数人の少年少女に絡まれていた。

名前はその光景に既視感を覚えた。
昔、まだ幼かった頃に、名前自身も経験したことがある。

いじめだ。

取り囲まれた少女の姿が、過去の自分と重なる。


「や、やめてあげてよ…」


普段なら、傍にいる九太にしか拾えない声だった。

殆ど空気のはずの名前のそれは、静まり返ったその場所では運悪く一つの音として響き、相手の耳にもしっかりと届いてしまったらしい。


「あー…見てた?いや、ちょっとトラブルでさぁ」


そう言いながら、一人の少年が名前たちに近付いてくる。
胡散臭い笑みを浮かべたその表情が、九太の肩を掴むと同時に悪意に歪んだ。

九太の鳩尾に、少年の膝が打ち込まれた。


「なんも見てねェよな?なァ!?」
「っ、九太!」
「キミこいつのカノジョ?ごめんね、目の前でカレシボコっちゃって」
「そのワンピースいつの時代のやつってくらい流行ズレてんね。顔すげェカワイイのにさァ、もっと違う服あんじゃん」


もう一人も九太へと歩み寄り、残りの一人が名前の二の腕を掴み上げた。
先の反動で上体を折った九太に、再び蹴りが入れられる。
少し離れたところで、少女たちが下品な笑い声をあげていた。

びくともしない大きな手を振り解こうと藻掻きながら、名前は少年に取り囲まれる九太に手を伸ばした。
混乱する頭のなかが、後悔で埋め尽くされる。

あの時、声を出さなければ。
あの時、九太を無理にでも澁天街に連れ戻していれば。
あの時、剣術だけじゃなくて武術も身につけていれば。

後悔が涙となり、名前の両の目尻に浮き上がった。
あまりにも非力な自分に、その頭が自然と垂れ下がる。
あの頃よりも伸びた金色の髪が、音を立てて肩から滑り落ちた。


「―――う、あ…!」


ふ、と空気が変わった。

殺意とは違うが、それに近い空気につられて勢いよく顔を上げれば、一方的に蹴りつけられていた九太が素早く立ち上がり、名前の腕を掴んでいた男もまとめてそれぞれに拳を一発撃ち込んでいった。
一瞬にして、九太がその場を征してしまった。

痛みに蹲る少年たちの向こう側で、少女たちが慌てたように立ち去っていった。


「……名前に触んな」


今までに一度も聞いたことのないような低い声は、本当に九太のものなのだろうか。
肌を刺すようなピリリとしたこの空気は、どこから出ているのだろう。

乱れた前髪の奥で九太の瞳が赤く光っていたような気がして目を瞬かせるも、そこにあるのはいつもの黒いそれで、今はじっと一点に名前の姿を捉えている。

九太の手が名前の指先に触れたと同時に、名前は膝から崩れ落ちた。
咄嗟に背中に腕を回せば、くたりとした力ない笑みが九太を見上げてくる。


「九太…怪我、ない?」
「…ないよ。……ごめんな」
「ううん、ちょっとびっくりしちゃっただけ」


私の方こそ、ごめんね。


意味を仕舞い込んだままの謝罪が、涙に濡れた声で紡がれる。
九太はそれに一言も応えず、代わりに薄い背中に回した腕に力を込めた。


「あの、とりあえず座る?」


静かだった空間に音を投げ込んだ第三者―――図書館で、九太に漢字の読み方を教えてくれた少女だ―――の声に導かれ、九太と名前は図書館の脇にある駐車場へと腰を落ち着けた。

少女は鞄の中から1冊の本を取り出し、九太の前に差し伸べる。
表紙を見やれば、それは、先ほど九太が図書館で読んでいた本そのものだった。
どうしたのかと視線で問いかければ、なんとなく気になったから借りたのだと言う。

九太は縁石に座らせた名前の一つ隣に腰掛け、少女から受け取ったばかりの本を広げた。


「暴力は良くない。―――でも…ありがとう、助けてくれて」
「別に助けてない」
「助けてくれたじゃん」


少女の言葉を右から左に流しながら、九太は文字の海を泳ぐ。
やはり、読めない文字だらけだった。

思わず先のように読めない字を問えば、きょとんとした顔で少女が九太に向き直った。
なんとなくその視線が気まずくて、九太は名前に目線をやって、再び手元に俯く。


「なんにも知らないんだ。小学校から学校に行ってない」


九太の口から漏れた単語に、名前は首を傾げた。
小学校とは何だろうか。
それでも、なんとなく九太と少女の会話に割り込むことは憚られる。
濃紺を背景にした桜の木を見上げていると、チコが九太の肩から名前の肩の上へと飛び移ってきたものなので、名前はチコの頭を撫でながら「綺麗だね」と小さく呟いた。


「じゃあ、その本にある字、私がぜんぶ教える」
「……本当?」


少女は自らを楓と名乗り、九太は自らを蓮と名乗った。

楓曰く、九太の「れん」は草冠に連なる。
白い指が宙に文字を描くように動いていたが、名前は少しも理解することができなかった。

少しずつ、九太が遠ざかっていくような錯覚が名前を襲った。

楓は名前にも名を訊ねたが、名前は一度も口を開かなかった。







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