熊徹庵の向かう曲がり角の先。
そこに伸びる石段が見えたと同時に、人が織り成す行列が壁に沿ってずらりと並んでいる様子が三人の目に飛び込んでくる。

熊徹に弟子入りを志願する有志の列だ。

次々と弟子に逃げられていた昔の熊徹からは想像もできないことだが、九太の成長振りはそれはそれは評判となり、九太を育て上げた熊徹への評価と信頼に昇華していった。

目の前の行列は、それを最も証明する結果だった。


「オラァ待て!!」
「―――きゃっ!」


石垣の谷に怒号が響いたかと思うと、名前の姿が一郎彦たちの隣から消える。
目の前を颯爽と走り抜けた人物を目で追えば、熊徹の元から逃走した九太が名前の腕を引いて連れ去っていくところだった。

風のように駆け抜けて行く九太の後ろ姿を見送った二郎丸は、あの熊徹庵が、と感慨深げに己の牙を撫で付ける。
その隣で、一郎彦の青い瞳が金色に染まっていたことも知らずに。


「っ…信じ、らんない…なんで、私まで…」


夏の茹だるような暑さのなか、九太に腕を引かれ全力で走る羽目になった名前は、壁にもたれ掛かりながら九太を睨め付けた。
ひんやりとしたコンクリート壁が、名前の剥き出しの肩や腕から熱気を吸い取ってい。

名前を連れ去った本人は膝に手をついて肩で息をしつつも、その顔は悪戯が成功した子供のようなそれを浮かべている。


「悪い、つい…にしても、アイツしつこいんだか、ら―――」
「…なに?どうしたの…?」


不自然な言葉尻のまま黙り込んだ九太に、名前は訝しむように随分と高くなった位置へと顔を持ち上げる。
見上げた先の九太と言えば、その顔に光を差す正面を一心不乱に見つていた。

つられるようにそちらへと一瞥した名前は、そのまま九太と同じように固まり、元より大きな双眸を更に見開いた。

九太だけは、その場所に見覚えがあった。

路地裏の湿った空気。
壁を伝う配管の巣。
妙に目を引く植木鉢と花。

光が差す向こう側から微かに聞こえてくる、雑踏。

見覚えがあった、なんてものではない。
九太はその場所を"知っていた"のだ。

澁天街の闘技場よりも背の高い建物。
広く整備された道では、猪王山の弟子でも足りないほどの数の人が歩いている。


九太が生まれ育ち、名前が生まれた人間界だった。


誘われるように人間界へと足を踏み入れた九太は、一つ一つの景色を確認するように辺りを見渡す。
そんな九太の腕を引っ張り、先程の路地裏へと促すのは名前だった。


「ねえ九太!ここやだ、帰ろう!ねえ!」


名前がどれほどその腕を引っ張ろうと、九太の体はびくともしない。
むしろ九太が歩けば名前は引きずられるように体が動き、どんどんと路地裏から離れていく。

最初の段階で名前だけでも引き返しておけば良かったのだが、このまま九太を一人だけ人間界に残すという選択肢は名前の頭には一切なかったのだ。
おかげで今では路地裏への道順すら分からず、黙って九太について行くしかなかった。
名前はぴったりと九太の腕にしがみつき、できる限り体を小さくして人間界の風景を窺った。

暫く人間界の街を歩いていた九太が次に立ち寄ったのは、街から少し外れたところにある図書館だった。
茶色いレンガのこぢんまりとしたそこは、九太が人間界にいた頃によく通っていた場所の一つだった。

こんなにも多くの本を見たことがないらしい名前は、図書館に入るや否や、夥しい本に目を丸くさせていた。
何か気になるものがあれば見てきていいと告げるも、名前はふるふると首を振り、ますます九太の腕にしがみつく。
二の腕に強く押しつけられる柔らかな感触に思わず顔が熱くなるも、カウンターの向こうからこちらを見据える鋭い眼差しに気付き、いまだ怯えた様子の名前を連れてそそくさと本棚の影に身を滑り込ませた。

今のところ騒いではいないが、念のため、図書館では静かにするように、と名前に教えてやった九太は徐に一冊の本を手に取りページを開く。


「肝心の…などを…にして…くっつけて…るのだが…その…の…は…の…ながく…い…から―――」


読み始めたものの、やけに小難しい漢字の羅列に冷や汗が滲む。

澁天街での生活は勉強とは無縁のものだったので、九太の知識は9歳のままで止まってしまっていた。

九太の手元を覗き込んだ名前も、小さな声で九太と同じ文字だけを呟くように音読している。
名前に識字能力が一切備わっていないことに驚いた九太が、昔一度だけひらがなを教えたことがあった。
その時に教わったことをきちんと覚えていたのか、ひらがなの部分はなんとか読めているようだった。

ふと、隣に人の気配を感じる。
あまり顔を動かさないようにそちらへと視線を向ければ、九太や名前と同じ年頃の少女が本棚を物色していた。


「ねえ、これなんて読むの」


少し考えた後、九太はその少女に本を傾けながら読めない字を指さす。
隣で名前が九太の服の裾を引っ張った。

訊ねられた少女は本を覗き込み、少しの時間もかけずに「くじら」と九太の示した漢字の読み方を述べる。
知りたいことが判明した九太は、心底納得したように息を吐いた後、噛み締めるように復唱しながら元の位置に体を戻した。


「九太、帰ろうよ…」
「もう少し」
「もう少しって―――…っ!」


不安げに声を震わせながら九太の服に皺を増やす名前は、突如鳴り響いた電子音に飛び跳ねた。
すぐに九太の正面へと回り込み、びくびくしながら音の発生源を探すその姿は、名前の狼が種であることを思い出させる。

かわいい。

怖がっている本人には申し訳ないが、九太は胸の内でそう呟き本棚に本を戻した。


「行こう」
「うん…!」


そう言って名前の手を引いてやれば、強ばらせていた顔をパッと明るくさせて我先にと出入り口へと向かっていった。







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