賢者を訪ねる旅を終え家に帰ってきた九太は、一人寝床に横たわっていた。

頭の中をぐるぐると何度も巡るのは、旅の最中に熊徹に言われた言葉と、名前のことだった。

名前と言えば、あれから何一つ変わりはなかった。
泣くこともなければ、悲しそうにする素振りも見せない。
代わり映えがないからこそ、逆に心配でならなかった。

大人たちも名前をどう扱って良いのか戸惑っているようだったが、そのなかでも熊徹だけがいつもと変わらない態度で名前に接していた。
見ているこっちがヒヤッとする言葉もあったが、そこにあるのは普段と差異のない光景だったから、これでいいものなのかと首を傾げる。

そんな熊徹に言われた言葉。


"意味は自分で見つけろ"


悩みの種が同時に二つもできるとなると、流石に堪えるものがある。
9歳の九太は、物事を同時に考えることがまだ得意ではなかった。


「九太、お洗濯終わったからお掃除お願いしてもいい?」


そんな悩みの種の一つが突然部屋に入ってくるものだから、九太は慌てて体を起こして名前を見上げた。
空になった籠を携え、石けんの香りを纏いながらこちらを見下ろす名前をじっと見つめてみるも、やはり以前と変わりはない。
うん?と首を傾げられたので、九太はなんでもないと首を振る。


「へんなの」


そう言い残して庭へと出て行った名前の後ろ姿を、見えなくなるまで追った。

再びごろんと転がった九太は、深い溜息を吐いた。


「なりきる。なったつもりで」


ふと聞こえてきた声に、違和感を覚えて辺りを見渡す。
女性の声だったそれは、名前のものとは違う、もっと大人の落ち着いた声だった。
この家にいる女性は名前だけなので、名前のものでなければ一体誰のものだったのだろうか。

なんとなくチコに視線を向けてみるも、チコはキュッ?と首を傾げるだけだった。


「なりきる……」


"なりきる"
その言葉が、九太の心に深く浸透していった。

まずは手始めに、庭で一人稽古に勤しむ熊徹の動きを真似てみた。
手にした箒を刀に見立てて、一挙一動逃さずに動きを合わせる。
熊徹が欠伸をすれば、九太もそれに倣ってしたくもない欠伸を零す。

何をやっているのだろうか。

自分自身でも分からない戸惑いが生まれると同時に、頭のなかで反響する"なりきる"という言葉に突き動かされている自分に気付く。

こうして九太の奇妙な稽古は始まり、熊徹がすることは一つも取りこぼさずに九太も行った。

熊徹の真似をするようになって数日が経ったある日。

九太は、見ていなくとも熊徹がどのような足運びをしているのかが分かるようになった。
台所で夕食の準備をしていた時のことだった。

庭で多々良と賭博に興じる熊徹の足音を辿るように、自然と九太の足も動いていたのだ。
九太の目蓋の裏で、熊徹の足がその音の通りに動いている。

一つの可能性を持った九太は、翌日、熊徹に奇襲をしかけた。
箒の柄で一発、二発熊徹に打ち込み、後は熊徹の動きを先読みしながら避けるだけの単純な動作だったが、やはり思ったとおり、九太は熊徹の動きが完全に読めるようになっていた。

突然の九太の成長振りに、百秋坊は当然のこと、あの多々良までもが身を乗り出して九太を褒め称えた。
今まで九太を邪険に扱っていた多々良に、初めて認められた瞬間だった。

いまだ凄い凄いと手を叩く多々良の肩の向こうに、名前の後ろ姿を捉える。
九太はその後ろ姿を追いかけずにはいられなかった。


「名前!」
「きゃっ―――いたい!」


突然大声を出されたものなので、名前は驚いてニワトリ小屋の天井で頭をぶつけてしまった。
一斉にニワトリが羽ばたきながら逃げ出した。
ニワトリ小屋の掃除をしようとしていたらしい。

九太は咄嗟に謝り、昔、母親にされたように名前の頭を撫でた。


「どうしたの、九太」


薄らと涙を浮かべながらも微笑みながら九太を見上げる名前に、九太は頭から離した手でそのまま名前の手を握り締めた。
名前の頬に、朱が差す。


「なりきる!なったつもりで!」
「……え?」
「だから、なったつもりでなりきるんだよ!」


話が読めずに疑問符を浮かべる名前に構わず、九太は握り締める手に力を込める。


「名前の稽古の相手をした日に言ってたろ!
 アイツのマネをしてるって」
「あ…う、うん、言った…かも?」
「おれも、アイツになったつもりでアイツのマネをしたんだ。
 そしたらさ!見てないのにアイツの動きが分かるようになったんだ!」


興奮で鼻息を荒くしながら述べれば、名前はポカンとしたその数秒後には声を上げて喜んでくれた。
小さく跳ねながら言われた「すごいよ!忍者みたい!」というのは、恐らく名前なりの感動の表現だったのだろう。

名前は九太のことについては、自分のことのように喜んでくれる。
それが嬉しくて、九太はどんなことでも必ず名前に報告するようになっていた。

予想通り、九太の新たな能力にも文字通り飛んで喜んでくれた名前の姿に、九太は一つ確信した。


名前が好きだ。


そんな思いがふわりと浮かび上がり、名前の笑顔で温もりが広がる胸の中に溶け込んでいく。
この笑顔で心が温かくなるのも、名前に褒められるのが嬉しいのも全部、ここから来るものだったのだ。

ようやく名前に対する感情を見つけた九太は、ふと名前の動きを止めて眉を下げた。


「おれは、名前にもなったつもりでなりきる」
「うん?」
「だから、おれはあの賢者の話を聞いたとき、どうしようもなく悲しかった」


九太の言わんとすることを察した名前は、意味を持たない吐息を漏らした。
繋がれた手元に視線を落とし、何かを思案するように小さな口を開閉している。


「……泣いていいんだぜ」


傍の木で鳴いていた蝉が飛び立ち、夏の声が遠ざかる。

言ってしまった、と思う反面、ようやく言えた、と九太は安堵した。
名前に言葉をかけたくて仕方がなかったが、なんて言葉をかけることが正解なのか九太には分からず、長い間言い倦ねていた言葉だった。

支えが取れたことにより、思っていた以上に容易にその一言を紡げたことに、九太は自分自身でも驚いていた。

そっと名前の青い瞳を覗いてみる。
日の光を受けて、宝石のようにきらきらと輝いていた。


「泣かないよ」


ふっくらとした唇が、そう紡いだ。


「わたしは泣かないよ」


九太は、息をすることも忘れて名前を見つめた。

照れたような笑みを浮かべながら、青い瞳が九太の目を覗き返している。
確かにその双眸は濡れておらず、涙は出ていないようだった。

不意に、九太の手を擦り抜けた名前の指先が、九太の指先を弄ぶ。


「本当のお父さんは死んじゃってて、お母さんに捨てられたのかもしれないっていうことは悲しかったよ?
 けど、そのおかげでわたしはお父さんと出会えて、百さんや多々さん、九太に出会えたから、これで良かったって思ってるの」


だから、涙は出ないよ。


そう言って笑った名前の笑顔は、やはり九太の好きなあの笑顔そのものだった。







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