「教えてほしいことがあります」


勇敢にも、真っ先に口を開いたのは名前だった。

豹は相変わらず枝の上で寝転がり、しかしその金色の目をしっかりと名前に向けた。
すべてを見透かすようなその眼差しに、何もしていないにも関わらず何故か後ろめたさを感じる。


「―――嗚呼、お前は」
「ご存知なのですか」


知人を見たかのような声を上げた賢者に、百秋坊は食い込み気味に問いかけた。
ややあって賢者は否定の意を見せたが、鋭いばかりだった眼差しには懐古の色が浮かんでいた。


「知りはしないが、知っている。
 ―――狼の子よ、名はなんという」


狼の子。

何の前置きもなく打ち明けられたそれに、一同は騒然とした。

狼の子。
名前は、狼の子だったのだ。

当の本人だけは理解が追いついていないのか、名を訊ねられているにも関わらず呆然と佇んでいた。
そんな名前の背中に九太の手の平が沿わされ、そこで初めて名前はハッと体を震わせる。


「……名前、です」
「名前か…良い名だ、名前」
「わたしは、狼なんですか…?」
「それが知りたかったのだろう。
 名前、お前は狼であるが、狼ではない」
「…どういうことですか」


意味深な賢者の口振りに、百秋坊は努めて冷静に疑問を呈した。

音もなく起き上がった賢者は、なんとも身軽に巨木から飛び降りる。
足音を一つも立てずに五人へと歩み寄り、その中で1番背の低い名前を見下ろした。

名前の背に回った九太の手に、僅かに力が籠もる。


「何故、狼の子である名前が一度も本来の姿に成らなかったのか。
 それは、お前のなかにあるもう一つの血が妨げているのだ」
「もうひとつの…血…?」


そこで賢者の目がついっと隣の九太に移る。
びくりと肩を震わせた九太は、それでも目を背けまいとしっかりと金色の双眸を見つめ返した。

そう警戒せずとも良い、と賢者は乾いた笑いを浮かべた。


「人の子、お前と同じ血が、名前にも流れている」
「―――合いの子、か…」


驚愕に塗れた百秋坊の溜息が、やけに鼓膜にこびり付いた。

合いの子。
狼と人間の間に生まれた、バケモノと人間の混血児。

それが、名前だった。

賢者は、自らの強さを"千里眼"だと例えた。

遠隔の地での出来事を、その場に居る者の眼を借りて感知できるその能力は、澁天街を守護する役割をも兼ねていた。
澁天街の出来事ならば殆ど見ずとも手に取るように解り、眼さえ借りてしまえば人間界に降り立つバケモノの動向も探れると言う。

9年前のある日、人間界に突如バケモノの気配が現れた。
澁天街から舞い降りたバケモノにしては、あまりにもその気配は突然に。

そのバケモノの存在は朧気で、千里眼の力を使おうにも、靄がかかったように上手く探ることができなかった。
賢者は、この儚い存在を知っていた。
見ようと思っても、その儚さ故に上手く見ることができず、澁天街では殆ど必要としていなかった視界。

赤ん坊の視界だった。

人間界に、バケモノの赤ん坊が生まれたのだった。

その赤ん坊の傍に常にいるのは、母親のようだった。
母親が人間だったのだろう。
気配もなければ、母親の眼を借りて状況を伺うことも出来なかったのだから。

そんな赤ん坊と母親の元に、時折、成人したバケモノの気配があった。
このバケモノが、人間の女の夫であり赤ん坊の父親だった。

父親が人間界に赴いた時だけは、その様子がよく窺えた。
鮮やかな色に包まれた、幸せに満ちた空間だった。
時には怒りや悲しげな色を見せることもあったが、その殆どが暖かな空気に占められていた。

そんな色がパタリと途絶えたのは、赤ん坊が生まれて3年後の冬のことだった。

男のバケモノの気配が、人間界で消えた。
バケモノの眼を借りて最後に見えた景色と言えば、男の元に物凄い速さで向かってくる鉄の塊だった。

そこからと言うもの、少女の目を通して様子を探ることが酷く難しかった。
赤ん坊ではなくなったと言えど、物心がついたばかりの幼児の視界は感知しづらいものがある。
ましてや少女はバケモノと人の混血。
バケモノであれば時間が解決してくれるものの、人の血を取り込んだそれでは、賢者の千里眼をもってもほとんど見えなくなっていた。

少女の視界を通して最後に見たものは、涙を湛えた悲しげな女性の後ろ姿だった。

賢者の口から語られた少女の記憶は、そこで止まった。


「―――大きくなったな、名前」


じっと賢者の話を聞いていた名前の頭を、賢者はそっと優しく撫でる。
亡くなった父親の毛並みと同じ色の髪は、驚くほどに柔らかかった。


「……ありがとうございました」


意外にもはっきりとした口調で礼を述べた名前は、ふと、隣の九太を見やる。
名前の視線に気付いた九太は、すぐに名前へと視線をやった。

目が合うと同時に、いつもの笑顔が返ってきた。

何か言おうと口を何度か開閉するも、九太の頭にはどんな言葉も浮かんでこなかった。


「九太、名前と一緒に先に船に戻っていてくれないか」


百秋坊がそう語尾を下げて言うものなので、九太は断ることもできずに言われた通り名前を連れて小舟へと戻った。

子供たちが遠くに見えることを確認した百秋坊は、意味もなく一つ息を吐き出す。


「ご存知であれば教えていただきたい」
「名前の行方を皆まで見届けられなかった償いだ。
 私が知る限りのことであれば話そう」


小舟の上で九太と笑い合う名前を指し示しながら、多々良が鼻を鳴らした。


「アイツが狼の姿になることは」


核心に迫った問いだった。

賢者は緩やかに腕を組み、その顎に指を沿わした。
心なしか、難しげな表情を浮かべている。


「―――飽くまで私の憶測に過ぎないが、名前の心次第、かもしれない」
「名前の心次第…」
「名前は人間界で生まれ、始めは人間に育てられていた。
 刷り込みとはまた違うものだが、恐らく名前は生みの親である人間のことを心のどこかで覚えており、人間とバケモノの狭間で揺れているとも考えられる」


名前のなかで、人間としての自覚が消えるか、無意識に抑えているバケモノとしての自覚が強まらない限りは、恐らく人間の姿のままだろう。

そう静かに語る賢者は、人知れず溜息を吐いた。







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