木組みの軋む音すら聞こえてきそうなほどに静まり返った家屋の床に、靴を脱いだ爪先を静かに落とす。
物音を気にしながら家に入るなんて、まるで泥棒のようだ。

漠然と漂う後ろめたさを消し去るために、数秒前にこの大きな日本家屋の前で善さんから言われた言葉を頭のなかで何度も繰り返す。


「紗月くんなら部屋にいるよ。私はこれから買い出しなんだ。悪いけど、課題がきちんと終わっているか確認してもらえないかな」


これはつまり、家に入ることへのお許しは善さんから出たわけだ。
決して、断じて、間違っても、無断で侵入しているわけではないと信じたい。

縁側からすぐ目先の襖はぴったりと閉じられていて、部屋の前で耳を澄ませてみても、物音ひとつ聞こえなかった。
「もしかしたら寝ているかもしれないけど」と善さんが言っていた言葉が脳裏を過る。


「紗月くん?」


小さすぎず、大きすぎない声量で呼びかけてみるも、やっぱり部屋の中から返事はなかった。
こういう時、ドアだったら次にノックをすればいいのだけれど、襖はそうもいかない。

人差し指の爪で襖縁を軽く弾いて音を立てても、一向に反応は返ってこなかった。
ここまでしてリアクションがないとなれば、襖を開けて気まずくなることは行われていないはずだ。

襖縁を謎っていた指をするすると動かして、襖引手に引っ掛ける。
極力音を立てずに襖を開けて、中の様子が伺えるように視界を確保する。
二センチ程度に線を広げた向こう側で、布団も敷かずに床の上に横たわる姿を認めた。


「───寝てる」


僅かに開いていた襖を半分まで引いて、紗月くんの部屋に体を滑り込ませる。

真っ白なTシャツに黒のハーフパンツ。
傍らにはスマホとコミック誌が散らばっていて、どうやら転寝をしてしまったことがわかる。
デスクの上を確認すれば課題らしきノートもなく、恐らくそれは鞄のなかにしまわれたままであることが推測できた。

家庭教師のようなポジションで紗月くんの部屋に訪れていた時でさえ、こういった場面には出くわしたことがない。
私が勉強を見に行く時間にはしっかり起きてくれていたし、付き合うようになってからもそれは同じだった。

家には他に誰もいないシチュエーションで、彼氏が寝ていた場合はどうするのが正解なのだろうか。

善さんからは課題のことを言われていたけれど、勝手に鞄を漁ってノートを確認するのも憚られる。
かと言って紗月くんのことだから恐らく八割方ノートは真っ新だろうし、そうであればちゃんと課題を見てあげたい気持ちもある。

起きるまで待つしかないのかもしれない。

そう改めた私は、紗月くんの傍らに座って手持ち無沙汰に寝顔を観察することにした。
普段から釣り上がり気味の眉尻は幾分かなだらかで、それだけでいつもの尖った表情が幼く見える。


「……かわいい」


思わずそんな感想が口から飛び出たものの、寝息に合わせて上下する分厚い胸板と、捲れた半袖から覗く腕や首に這うタトゥーに「……かわいい?」と疑問符が後を追った。
どれも私にはないもので、私のこれまでの人生に立つ異性にもなかったものだ。
はじめこそ多少の畏怖はあったものの、今となっては「かわいい」とまではいかないものの「かっこいい」と思えるようになった。

タトゥーを追って視線をずらせば、袖に少しの隙間も与えない二の腕が目に入る。
紗月くんが鍛えているところの一つだ。
今は力が入っていないから何となくのっぺりとしているけれど、些細な動きで逞しい影や凹凸を作ることを知っている。

正座の姿勢を崩して、両肘をついて紗月くんの二の腕に指を乗せる。
タトゥーの形をなぞって、それから皮膚の下に隠れる筋肉を確かめれば、自分のものとは全然違うことを思い知った。
善さんと比べてしまうとまだまだ成長の余地はあるけれど、一般的に見れば紗月くんの筋肉量も相当なものだろう。


「───ん……」


不意に、耳から垂れた髪が吐息に揺れる。
二の腕から反らした目でそちらを見やれば、紗月くんのいかにもな寝ぼけ眼と目が合った。
眉尻がちょっとだけ持ち上がっていて、さっきまでの幼さが消えている。

紗月くんのことだから驚くかな、なんて構えていたら、二の腕に触れたままだった手を引っ張られて体勢が崩される。
側頭部が着地をした先は、さっきまで触っていた頑丈な二の腕だった。


「さ、紗月くん?」


慌てた呼びかけにも反応はなくて、どうやら紗月くんは覚醒する前にそのまま再び眠りに落ちてしまったらしい───私を抱き締めたまま。

善さんから頼まれたことが、脳の隅で浮かんでは消えを繰り返す。
課題の進捗を考えると起こした方がいいのかもしれないけれど、あまりにも気持ちよさそうに寝ているものなので、起こすのが可哀想だと感じてしまう自分がいた。
紗月くんにすっかり甘くなってしまった。

そして何よりも、彼の高い体温に包まれていることが心地よすぎる。
腕枕は高反発だし密接した体も硬いものの、自分と違うからこそ紗月くんの存在をより感じることができた。
紗月くんの腕のなかに、当たり前のように迎え入れてもらえることが嬉しかった。

「幸せ」「課題」の二つが、交互に脳裏を過っていく。
夢なのか現実なのかわからない曖昧な境目に辿り着いた頃、紗月くんの変な悲鳴で意識が急浮上したのはもう少し先の話だ。







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