「うわあ…」


いつも以上に人がごった返す駅舎を目にして、脳を介さずに漏れた言葉は随分失礼なものだったような気がする。
高い天井に反響したスーツケースを転がす音が、大型連休の賑わいに拍車をかけていた。

待ち合わせ場所に指定したステンドグラス前にも人が溢れ返っており、最初に見つけた隙間に素早く体を捻じ込ませてから、減っては増える波に乗って少しずつ内側の方へと滑り込んだ。
漸く落ち着いて立っていられる位置に辿り着くと同時にスマホでSNSを開き、友人とのトーク画面に到着した旨を打ち込む。
白いキャラクターが不安げにきょろきょろしているスタンプに既読がついた数秒後、人垣の間から「名前、おはよう!」と肩を叩かれた。


「ごめんね、待った?」
「ううん、ついさっき来たとこだよ」


本来の待ち合わせ時間までまだ三分ほどの猶予はあるが、友人から「着いた!」と連絡を受けたのが二分前のことなので、待たせてしまったという事実に若干の申し訳なさを覚える。
もう一度謝罪を口にしながら、同じように人を待つ群衆から名前は離脱した。

改札を通り、しばらくしてホームに流れてきた電車に乗り込む。
乗車駅で大勢の人が降りてくれたので、入れ替わるように乗車した名前たちは二人肩を並べて座ることができた。
毎日乗っている電車だと言うのに、服がいつもと違うだけでどこか違う所まで連れていかれそうな気がした。


「最寄り駅着いたら差し入れ買わないとだね」


さしいれ。
その四文字に思考が途切れた名前は、ややってから「ああ」と納得した声色を披露した。


「佐藤くんのね、差し入れ」


ゴールデンウィーク期間にバレー部が行う公開練習試合は白鳥沢の名物となり、この時期は在校生をはじめOBや部員の親類縁者が試合を一目見ようと学校に押し掛ける。
こうして名前たちが祝日にも関わらず学校に向かっているのも、もちろん例に漏れずバレー部の練習試合を観戦するためである。

友人にはバレー部に意中の存在がおり、観戦に誘ったのも名前ではなく友人の方からだ。
微笑ましい友人の青春を応援するために二つ返事で誘いを受け入れた名前は、差し入れの四文字を理解した途端口角がゆるゆるとくすぐったくなった。
そんな名前の締まりのない笑みを目にした友人は、僅かに頬を染めたかと思えば、次の瞬間には半目になって溜息を吐いた。


「名前もよ、差し入れ」
「え?私?」
「そう、白布くん」


心当たりがない、と思ったところで友人の口から出てきた名前に、名前はびくりと肩を跳ね上げさせた。

友人のように、はっきりとした意中の相手ではなかった。
ただのクラスメイトであり、同じ委員会という程度しか接点はない。
それでも、垣間見える彼の優しさがいいなと思った。
表情こそあまり変わることもなく大人びて見える同級生だったが、だからこそ時折覗く年相応な言動や些細な気遣いに心を掴まれる場面が多々あった。

急にもじもじと両手を動かして黙りこくった名前の二の腕を、友人は肘で軽く突いた。


「告白じゃないんだから、一緒に頑張ろ」


特定の個人に差し入れだなんて、ある種告白のようなものではないだろうか───そんなことを言えるわけもなく、車内アナウンスに従って目当ての駅で降車した後、学校から一番近いコンビニに立ち寄った。
自分たちの飲み物と一緒に、友人はゼリー飲料とカロリーメイトをチョイスし、悩みに悩んだ末、名前はゼリー飲料だけを購入して学校へと向かった。

バレー部の練習試合にも関わらずまるで文化祭のように観客で華めいており、よく知った学校とは違った雰囲気が漂っていた。


「なんだか不思議な感じがする」
「休みの日の学校ってちょっと違う雰囲気あるよね」
「うん、それに私服だから余計に」
「白布くんもドキッとするかもよ、いつもと違う名前に」
「ねえ、ばか!」


名前は慌てて友人の上半身にしがみつき、それ以上の言葉を封じ込める。
まだ好きだと認めたわけではない。
そんな中途半端な状態だと言うのに、バレー部やその関係者ばかりの場所で出てくる話題としてはあまり適していない。
むしろ名前からすれば誰かに聞かれでもしたら都合がよくない話でもあるので、学校にいる間は彼の名前は禁句にするよう友人に釘を刺した。

暫く二人でふざけ合った後、仙台駅のように人が溢れた校内を縫い、大きな体育館へと足を踏み入れる。


「これ、どこに座ったらいいんだろ」


ちらほらと空席が確認できる二階の観客席を見渡した友人の、小さな呟きが隣から聞こえた。
白鳥沢の体育館はコートが一面ではないため、目当ての部員が使用するコートに合わせて席を取る必要がある。
しかし練習試合ともなればあまり詳細は公表されておらず、座った席で適当に応援をする雰囲気が漂っていた。


「私、お手洗い行くついでに聞いてきてあげる」
「まじ?ありがとう…!」
「わかったらLINEするね」


登ってきたばかりの階段を降り、唯一解放されていた校舎のお手洗いで用を済ませる。
壁に張り付いた鏡で軽く身だしなみを整える最中、静かに息を吐き出す。

場の流れで差し入れを購入したものの、渡せる気など到底しない。
連絡先の交換どころか、世間話すらろくに交わしたことがないのだ。

名前は必死に白布賢二郎という男子生徒について思いを巡らせる。
思いを巡らせたところで、名前の頭に浮かぶ白布賢二郎はいつもバレーと共にあった。
それと同時に、それ以外の白布賢二郎についてほとんど何も知らなかった。
中高一貫の白鳥沢において、彼は高校から白鳥沢の生徒となった受験組だ。
なぜ白鳥沢に来たのか、いつからバレーを始めているのかもわからない。

今ならまだ、片想い未満で引き返すことができる。
友達の付き添いで来ただけで、同じクラスだから差し入れを持ってきたという口実で逃れられるに違いない。
名前は彼に対する思いに、いまだ名前をつけられずにいた。

「トイレ混んでる?」という友人からのLINEで我に返り、慌ててお手洗いを後にしてバレー部の関係者を探すべく辺りを見渡す。
とは言っても誰がバレー部に直接関係している人なのかが不明瞭であり、しかたなく体育館へ踵を返そうとした時だった。


「あ」
「えっ」


曲がり角の向こうから思考を占めている人物が姿を現し、思わずコンビニの袋を胸元に手繰り寄せる。

紫と白が眩いジャージを纏った白布は、一度名前の頭上から爪先まで一瞥して口を開いた。


「名字じゃん」


なぜだろうか。
毎日教室で聞いている声だと言うのに、毎日見ている姿にも関わらず、名前には白布がなぜだか妙に特別な存在に見えた。


「あ、あの、えっと……佐藤くん、ってどのコートで試合するか、わかる?」
「佐藤?……アイツならCコートだけど」


彼とはいつもどんな風に言葉を交わしていただろうか。

ぎこちなさを覚えながらも友人に「Cコート!」と文字を打っていると、不意に頭上から言葉が続いた。


「佐藤の応援?」


あまりにも小さな声だったので、はっきりと聞き取れたわけではなかった。
それでもなんとなく、白布の言葉に「ノー」と返さなければいけないような気がして、名前はスマホから顔を上げた。


「え?」
「いや、なんでもない」


ろくに応酬が成り立たないまま、「じゃあ」という言葉と共に白布の右足が一歩前に出る。

また、脳を介していない言葉が零れた。


「待って!」


動きを止めた白布の手元に、コンビニの袋を押し付ける。


「これ!し、白布くんに……が、頑張って!」
「…………」
「迷惑だったらごめんね。捨ててくれていい、ので……」


尻すぼみになる声の裏側で、嫌に冷静な自分がいた。

言ってしまった。
渡してしまった。
差し入れを渡したという事実が残ってしまった。

一向に白布の手が袋に触れない様子を見て、絶望にも似た感情が腹の底でぐるぐると回る。
それでもまだ、片想い未満で終わらせられる道が断たれたわけではないことだけが、今の名前を救う唯一の猶予だった。

「ごめん、やっぱり」という言葉と共に袋を引き戻そうとしたところで、白布の手が名前の手から袋の持ち手を受け取る。


「サンキュ」


少しだけ、ほんの少しだけ笑みを含めた声が、優しく耳朶を撫でた。
表情こそいつもの様子と変わりなかったが、声色だけはいつもと違うことは確かだった。

これがもしドラマのワンシーンだとすれば、背後からロマンティックな音楽が流れ出していただろう。
これは現実で、ロマンティックな音楽は流れないし、突飛な告白も始まらない。

それでも、名前はこの瞬間に大きな変化を感じていた。
片想い未満で終わらせるには、少しだけ早いのではないだろうか。
もう少しだけ、彼について知りたいと思ってしまった。

次第に己の心音を内側から聞き取れるようになり、名前は「それじゃあ」と変な間を置き去りにして体育館へと足を向けた。


「俺Bコートだから。佐藤の試合の次」
「───!」


驚いて咄嗟に振り返る。
既にお互いの距離はあいてしまっていたが、こちらに向かって小さく挙げられた手が網膜に焼き付く。

クラスメイトの白布賢二郎が特別に見えたのは、休みの日の私服で校舎に立っているからだろうか。







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