巨大な大木に寝転がり、尻尾を垂らしながらこちらを見据える豹の眼差しに、名前は背筋に僅かな汗が伝うのを感じた。


「―――さて、何が知りたい」


名前が宗師に紹介された賢者は、森の奥深くに住んでいた。

空を覆うように生い茂る木々の根元には、緑色の絨毯のように葉が敷き詰められていた。
枝の隙間から零れる日差しを受けたそこは、所々に丸い日だまりができている。

この奥に行けば賢者に会える。
そう息巻いた熊徹が勢いよく一歩を踏み出した途端、百秋坊の制止の声も虚しく熊徹の姿が消えた。
正確には、地面に飲み込まれていった。

もっと言えば、地面と思われていたそこはすべて湖であり、それに気付かなかった熊徹が湖に落ちてしまっただけなのだが。
よく見渡せば、小舟が三艘浮いているのが見受けられる。

熊徹を救出した百秋坊はそのまま小舟に熊徹を乗せ、先陣を切って森の奥へと進んでいった。
次いで多々良も小舟に飛び乗り、名前と九太に向かってチョイチョイと手招きをした。
こうして、五人は森の奥を目指す。

櫂を沈めなければ湖だと信じられないほど、不思議な空間だった。
名前は小舟の縁に手をつき、じっと地面のような湖を見詰める。
その隣で、九太も同じような行動をとっていた。


「落ちても助けねェぞ」
「多々さんのいじわる」
「そん時はおれが助けるからな、名前!」


ヒッヒッと笑う多々良の横顔に、名前はイーッと歯を見せた。
二人の会話に九太が声を上げるも、お前泳げんのかという多々良の問いに対して言葉尻を弱くしていたのであまり頼りにはなりそうにない。

夏だと言うのに、この森では蝉が鳴いていない。
聞こえるのは、どこか遠くで鳴いている鳥の鳴き声と、櫂が水を撫でる水音くらいだ。

静かな森だった。


「さてさて、名前の種はなんだろうなァ」
「ずっと思ってたんだけど、種ってなに?」
「お父さんだったら熊、猪王山さんだったら猪っていうことだよ」
「適当な説明だな。
 俺たちバケモノを更に分けている種類のことだよ」


決して適当な説明をしているわけではないが、名前の知力ではこれが限界なのだ。
そんなところも可愛いと思ってしまっている時点で、多々良も名前にだいぶ絆されている一人なのだが、九太の前ではどうも素直になれないでいる。

多々良の説明で理解した九太は、この小舟のなかで唯一の大人である多々良に問いかけた。


「多々良さんは、名前はなんだと思う?」
「すばしっこくてにおいに敏感ときたら犬が相場だろうが、コイツはちっこいからなァ。鼠ぐれェじゃねェか?」
「ねずみ…」


始めは名前の種当てとしての話題で盛り上がっていた三人だが、徐々にその話は逸脱し、いつしか"そうだったらいいな"にすり替わっていく。


「宗師さまみたいな兎だったら、名前にも似合うと思う」
「聴覚は至って普通だしなァ、兎はないない」
「じゃあ、お父さんと同じ熊だったら嬉しい」
「残念だったな、それにしちゃチビすぎらァ」


ああ言ってはこう返してくる多々良に、名前はぷくっと両頬を膨らませた。
不満がある時の顔だ。


「じゃあ多々さんは何だったら嬉しい?」
「ハ?お前のことなのに?」
「うん」


子供特有と言うべきか、時折名前は意表を突くようなことを訊ねてくる。
今だって名前自身の話をしていたというのに、最終的には多々良"に"、何が"嬉しいか"と聞いてくるものなので、当然回答を用意していなかった多々良は素っ頓狂な声を上げるしかなかった。

多々良は数秒視線を彷徨わせ、ハアッと短い溜息を吐いた。


「―――名前だったらなんでもいいさ」


名前としては的を射ないそれに、むず痒そうに眉間に皺を寄せる。
皺を見た多々良は愉快そうに笑いながら櫂を水中に差し入れた。


「九太は人間だろう?」
「うん」
「九太のことは好きか?」
「うん!」
「じゃあ、もしも九太がバケモノだったら?好きか?」
「バケモノでも九太なんでしょ?そんなの好きに決まってるよ!―――あ」
「そう言うこった」


なるほど、と納得した名前の隣で、九太は顔を真っ赤にして湖を一心に見詰めていた。

それにしても。
多々良は人知れず顎を撫でる。

九太が澁天街に来てまだ1週間も経っていないと言うのにも関わらず、名前のこの懐き具合はなんだ。
多々良は相変わらず隙あらば九太を追い出したいと思っている身なので、前以上に九太を小突き回すことにやり辛さを感じた。


名前も九太も、お互いによく慕い合っているぞ。


以前、百秋坊が言っていた言葉を思い出し、あのことは本当だったのかと瞠目する。

もしもこの修行で九太が何も学ばなければ、従来通りいびり倒してやろう。
その代わり、何か一つでも九太に変化があれば、考えを見直してやるのも一興だ。

心のどこかでそう思い浮かべた多々良は、視界が開けた湖に浮かぶ小島に船を寄せた。

巨木が一本だけ聳えたその小島は、この森の中で最も重厚な雰囲気が漂っているような気がした。


「よくぞ参ったな」


不意に響いた声は、凜とした神々しさを纏い、五人の体をその場に縛り付けた。
否、勝手に体が動かなくなっているだけで、声の主自体は何もしてはいない。

そして、冒頭の言葉を紡がれた。







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