頭上で輝く太陽は、言うまでもなく完璧だった。
唯一完璧ではないのは、容赦なく吹き付ける風がこの上なく冷たく、降り注いでいるはずの太陽の温もりを相殺していることだ。
挙句の果てに吹き荒ぶ風ときたら、街路樹の枝をぶんぶんと揺らしては待ち行く人の服を悪戯に巻き上げている。
これが台風ではないというのだから驚きである。
名前自身もこの数分間で何度も舞い上がる前髪を必死に抑えたので、そろそろ「いい加減にしてほしい」というやり場のない怒りを感じ始めていた。
そうかと思えば隣を歩く紗月は普段と変わらない様子で、彼の意思ではじめから横に流されている前髪を羨ましく思った。
「寒くねェ?」
そう言ってこちらを振り返る紗月に、名前は「寒いよ」と少しばかり当てつけのように返事をした。
こうして寒いと答えたところで、彼がスマートに手を握ってくれるはずもない。
いかにもアウトローな形をしている癖に、臆病なのか、それとも何を拗らせているのかはわからないが、付き合ってから一度も手を繋いだことなどないのだ。
名前が少しでも、それこそ半径三十センチ以内に近づこうものなら、顔を真っ赤に染め上げて五十センチは距離を空けられてしまう。
女関係では酸いも甘いも噛み分けていそうな見た目とは程遠く、彼は異性に対して想像以上に奥手で内気な男だった。
もちろん、それは重々承知の上だ。
付き合ったきっかけも、名前が押しに押して最終的に紗月が根負けしたようなものである。
果たして本当に両思いなのだろうか、と考えたこともあったが、恋愛に対してあれほど小心者の彼が中途半端な気持ちで名前を受け入れるとは思い難い。
セックスをするのは結婚をしてから、くらいの信念を持っていそうな男なのだから、好きでもない相手を彼女にはしないだろう。
───と、名前は信じている。
「寒ィなら前閉めとけ」
鈍器のような指輪をいくつも嵌めた手が、名前のアウターのファスナーを閉める。
開けていた方が可愛いのに。
少しでも可愛いと思われたいから、寒いのを我慢して開けていたのに。
そんな思いさえも、強風と共に飛ばされてしまったらしい。
紗月の手によってしっかりとてっぺんまで上げられたファスナーに、内側から顎を押し付けて唇をへの字に曲げる。
彼の目には、名前が見てほしいものは少しも映ってはいないのかもしれない。
思い返せば、彼に一度でも「可愛い」「綺麗」などと言われたことはあっただろうか。
付き合って半月、出会って半年のなかでは皆無だ。
いよいよ悲しくなりそうだ。
「わっ……!」
名前が紗月の彼女としての自信を失くしたと同時に、これまでの比ではない風が一斉に駆け抜けた。
受けた風の塊は体を大いに煽り、上体がぐらりとぶれる。
「ッ、ぶね!」
大きな手が、二の腕に絡まる。
アウター越しでもわかるほどに、たくさんの指輪が腕に食い込んでいた。
それ以降の風は何事もなかったかのようにおさまり、時間が正常に動き出していく。
今の風やばかったねと笑いながら話し合う人が、名前と紗月の横を通り過ぎる。
「大丈夫か?」
驚いた様子の紗月に、名前は吐息と共に返事をするので精一杯だった。
「急に名前が視界から消えるからビビったぜ。お前、体幹ないのな」
苦笑する紗月の手が、名前の二の腕からゆっくりと離れていく。
途端にそこだけが寒々しく感じられて、無意識に視線を落とした。
いまだ二の腕に残る手の平の感覚に、ドキドキと体の内側が震えている。
「どうした?具合でも悪ィのかよ」
「違う、けど……」
「なんだよ、はっきり言えって」
怒っているわけではなく、ただどうしたのかと困っているような声色がつむじを撫でる。
その声に後押しをされたのか、それとも急かされたのかはわからなかった。
ポケットから覗いた手首に指先を引っ掻けると、紗月の前の体がぴくりと動いた。
「……寒いから、手、握ってほしい」
ただ手を繋ぎたいだけの本心に、多少の真実を混ぜる。
実際に冷たい風に晒された名前の体は冷えていて、紗月の手に触れる指も冷たくなっていた。
反面、紗月の手は温かく、彼の高い体温が名前の低くなった体温を解いていく。
ポケットから引き抜かれた手が、名前の手を握り込んだ。
「マジで冷てェじゃん。体調おかしかったらすぐ言えよ?」
あっさりと繋がった手に、目を瞬かせる。
飛び上がるほどに身体的接触を恥じらっていたというのに、こんなにも簡単に許されてしまった。
あまつさえ、繋いだ手を紗月のポケットの中に招待までされ、ぬくぬくとした温かさを享受している。
一体どうしたことか。
これまでで一番近い距離に目を白黒させていると、肩越しに振り返った紗月がはにかむように笑う。
「兄貴がさ、女は男と違ェから大切にするもんだって言っててよ」
「え?」
「お前に風邪とか引かせたくねェのに、いっつも寒そうなカッコで心配なんだよな。オレ筋肉あって体温高ェから、これで少しでもあったかけりゃいいんだけど」
オレンジ色の髪から覗いた耳が、寒さなのかなんなのか、赤く染まっていた。
瞬きを二度、三度。
紗月から紡がれた言葉を咀嚼した名前は、閉められたファスナーにもう一度顎を押し付ける。
思っていた以上に、彼からは大切にされていたらしい。
手を繋いでいなければ、その場で何度も両足を踏みしめて飛び跳ねてしまいたかった。
飛び跳ねるのを我慢した代わりに、名前はもう片方の腕を紗月に絡ませて残りの距離を埋めることにした。