「ねえ、私じゃだめ?」
もう何度目かもわからないその台詞に、いい加減ため息が漏れそうになる。
どれだけ歩く速度を上げようが、カルガモみたいにぴったりと後ろをついて回られるせいで少しも距離が生まれない。
通り抜ける薄暗い裏路地にも物怖じせず、むしろ俺以外見えてないのかと思えるくらいにそいつの目は真っ直ぐだった。
「だから無理だっつってんだろ。何回も言わせんじゃねぇよ」
「だからどうして無理なのって何回も聞いてるでしょ?」
女に声を荒げるのは好きではない。
しかしこの女には多少それくらいの脅しを入れないと効果がないのかもしれない。
女───名前に付きまとわれるようになったきっかけは、2ヶ月前にさかのぼる。
一人遅れて学校に向かう道中で、盗撮のターゲットにされた女子高生を偶然見かけてしまった。
その女子高生が名前というわけなのだが、本人は背後のおっさんにもまったく気づいていない様子で、手元のスマホに視線を落としていた。
技術の発展と共に盗撮の手口は多様化しているらしいが、おっさんは典型的にもスマホのカメラを上に向けていて、素人から見てもそれは盗撮の瞬間で間違いなかった。
未成年の女相手に狡いことを行う同性を目撃した気持ち悪さに、気づけば俺はそのおっさんの肩を荒々しく掴んで凄んでいた。
どうやらおっさんは私服警官からも目をつけられていたようで、俺が脅しの一言を告げるよりも先におっさんとの間に警官が割り込んできて、名前とともに事情聴取を受けることとなった。
塾に向かう途中だった、と涙声で話す名前を見下ろして、ただただ純粋に不憫だとその時に感じたような気がする。
それからだった。
始めのうちは礼をさせてくれ、という文句ばかり告げられていたが、次第にそのなかに俺を好きだという言葉が混ざり始めて今に至る。
「あ、塾着いちゃった。またね、紗月くん」
「おーおー、ガキはお勉強にだけ集中しとけ」
俺を見つけるなり引っ切り無しに後をつけてくるものなので、俺も自然と名前の塾を横切るルートを歩くようになった。
煌々と明かりの灯るビルに吸い込まれたそいつの後ろ姿に、ずっと我慢していたため息を全部吐き出す。
好意を向けられるのはめちゃくちゃ嬉しい。
可愛いし、スタイルもいいし、正直一度……くらいはオカズにしたかもしれない。
それでも、俺は名前の気持ちに応えてやることはできなかった。
そもそも相手はまだ高校生で、何よりもカタギの人間だ。
俺とは決して交わってはいけないと、誰よりも理解しているのは俺自身だった。
無垢な顔で言い寄られて、それを翻しながらそれとなく塾まで送り届け、この生産性のない関係に物悲しさを覚えるところまでがこの2ヶ月の俺のルーティーンだ。
いつのも場所に降り立ち、自然と名前の気配を探る。
利用している電車のタイミングの問題なのか、普段なら既に背後から「紗月くん!」と声をかけられている頃だった。
それでも、今日は一向に俺の名前を呼ぶ声は響かず、むしろ気配すら感じられなかった。
風邪でも引いたのか?
そう思い少しずつ歩みを進め、塾までの道をゆっくりと辿り始めた先で、俺よりも早く着いたらしいそいつの姿を見つける。
なんだ、体調が悪いわけではなかったのか。
心の中でそう安堵しつつ、特に声をかけるつもりはなかったのでそれとなく人混みに紛れようとした瞬間のことだった。
行き交う人の流れから不自然にはみ出した男が、壁際でスマホを弄っていた名前に肩をぶつけた。
その勢いで名前の体は地面に倒れ、途端俺の頭がカッと熱くなった。
「大丈夫か!?」
尻もちをついたままの名前に駆け寄れば、丸くなった目が俺をゆっくりと見上げた。
「紗月くん」と紡がれた声は弱々しく、あの日、盗撮されかけた日の名前が一瞬にして甦る。
「───ンの野郎…!」
絶対ェ殺す。
その殺意だけで立ち上がろうとした俺だったが、パーカーを引っ張るか弱い力にいとも簡単に動きを制される。
「紗月くん……」
動きを封じる小さな手に自身の手を重ねたところで、それが震えていることに気づいた。
そりゃ怖いに決まっている。
力ではどうしても叶わない相手から、なんの理由もなく危害を加えられたのだ。
そこでふと、この2ヶ月のことを思い出す。
俺と合流するまでのことは知らないが、少なくとも、俺の後ろについて塾に向かう道中では名前には何も起こっていない。
今日に関しては、俺よりも先に名前があの場所にいたことで理不尽な暴力の被害に遭ってしまった。
そう気づいた瞬間、これまで心に渦巻いていた靄が一瞬で晴れていくような気がした。
人目のこともあるので、名前の肩を抱いて場所を変える。
いつも二人で通る、塾までの道のりだった。
「俺じゃないとだめだ」
「……え?」
「だから、お前には俺じゃないとだめだ」
俺が傍にいるだけで、自然とこいつを守っていたのかもしれない。
住む世界が違うだとか、そんなもんはどうにでもなる。
俺が全力で守ればいいだけの話だろうが。
そんな簡単なことにも気づけなかったのかと笑いそうになった。
「お前のことガキだと思ってたけど、考えてみりゃ1つしか違わねぇし、そもそも俺も高校通ってっしな」
パーカーを握る手に力が加わり、心なしか半身に触れた塊の体温が上がった気がした。
「───やっとスーパーヒーローが振り向いてくれた」
そう言った名前の声は、いつもの無邪気なそれと何ら変わりなかった。
さて。
人生初めての彼女になるかもしれない存在となった今、俺はこいつに何を言って何をすればいいのだろうか。
帰ったらこっそり兄貴にアドバイスをもらうとするか。