呆れるほどに油断しきった寝顔はいまだ目覚めを迎える様子はなく、一方でピンガは仕上げの香水までふり終えたところだった。
名前の支度にかかる時間は少なく見積もってどの程度だろうか。
立て続けに生まれる生活音にも反応を示さず、深い惰眠を貪っている原因にピンガ自身も関与していることと、その顔があまりにも安寧の色に塗れていたので起こすことを先延ばしにし続けた結果、出勤の時間まで三十分を切ってしまった。
「おい、いい加減起きろ」
小さな頭に名前自身の下着と仕事着を投げ捨てれば、重なった布の下からくぐもった声が揺れる。
枕元に伸びた腕がスマホを探り当て、目当てのものを掴んでは再び布の山に潜って行った。
「―――やばい!」
現時刻を察した寝起きの頭は一瞬にして覚醒したことだろう。
寝起き一番に自分自身が全裸であることに気づいた名前は、器用にもシーツの下でそれらを身につけ、バスルームへと転がり込んでいった。
「ぐえーふはん、へいくほうぐはひへくははい」
「理解できる言語を使え」
名前はしゅんと眉を下げてから黙って歯を数秒磨いた後、「メイク道具貸してください」とうがいの合間に懇願した。
その要望を予め想定していたピンガは既に化粧品を並べ終えており、その傍で手持ち無沙汰に端末を操作した。
出勤まで残り二十分。
バスルームから戻った名前は「新品!ありがとうございます!」と言いながら化粧品のフィルムを剥がしにかかる。
いつの間にか、ピンガは端末ではなく名前を眺めていた。
普段より随分と引き算の多いメイクを施し、今やリップを塗る工程に入っていた。
「これ、買い直してお返しします」
「気にすんな」
名前に与えたメイク道具全ては用意していた予備の一つにすぎない。
譲ったところでピンガにとって痛くも痒くもな物だ。
半開きの唇に、艶やかな桃色がテクスチャーが乗る。
ピンガとは異なるチップの動きに目が奪われた。
「間に合ったぁ……」
ホッと息を吐きながら引き抜いたティッシュを、唇の間に挟む。
白いキャンバスに、名前の唇から移った色が浮かび上がった。
「グ―――んっ!」
程よく色づいた名前の唇を自身のそれで塞いだピンガは、赤いそれを弄んだ。
その手に握られていたティッシュを奪い取って、ゴミ箱に投げ入れる。
「いろ、移っちゃう……」
濡れた息を吐く名前の唇は、随分と色褪せてしまっていた。
ピンガは一度下唇を舐め、ふんと鼻を鳴らす。
「あら、私もこの色だから問題ないわ」
えっ、という声が聞こえた気がした。
朝のコーヒーを我慢すれば、あと五分は好きにできるだろう。