二本の脚で歩き、肺を使って呼吸をしているのに、まるで犬猫の鳴き声とさして変わらない親しみ深さで、クジラの歌を聞くのはなんとも不思議なことだと思う。
太陽の光が届かない廊下に響く20ヘルツ。
それを聞くたびに、海底にいることをまざまざと思い知らされた。
「きみは昨日の子?」
閉鎖的な空間で一日中目を光らせる行為は、なかなか息の詰まることだった。
休日だからと言って簡単に地上に上がれるわけでもなく、かれこれ1ヶ月は空という正反対に位置するものを拝んでいない。
そんな環境に限界を感じ、手軽にストレスを解消する方法はないものかと休日に施設内を彷徨ってみたところ、ソナーが探知したクジラの鳴き声が耳に飛び込んできた。
その途端、肩に入っていた力が驚くほど抜けたのだ。
以来、暇があればこうして観客として馳せ参じるのだが、最近、クジラの歌声にも個性があることに気がついた。
恐らく昨日も施設の周辺で歌っていたクジラと同じ個体が、今日ものびのびと歌っているようだ。
「もしかしてイルカも一緒なのかな。お友達?」
「見えない動物と会話してる子みーっけ」
神秘的な空間にそぐわない悲鳴が漏れる。
びくりと跳ねた勢いで振り返れば、にやにやとした笑みを浮かべた同僚と目が合った。
ばくばくと脈打つ心臓が落ち着くよりも早く、顔全体に熱が広がっていく。
とんでもなく恥ずかしいところを見られてしまったのではないだろうか。
予期せぬ羞恥心に固まっていると、ローヒールの音が少しずつこちらへと近づいてくるのがわかった。
「グレース……」
「クジラの声、聴いてたの?随分楽しそうだったけど」
まだクジラの泳ぐ姿が見られる水槽や窓でもあれば、傍から見た時の印象も変わっただろうか。
何もない壁に挟まれて、ただ流れる音にその雄大な姿を想像してはしゃいでいただなんて、あまりにも子供染みている。
触らなくてもわかるほどに顔と首が熱を持ち、目の前の同僚に面すら上げられない。
一方的に流れてくる音に向かって語りかけるだけの独り言を聞かれるのは、この上なく恥ずかしかった。
「グ、グレースこそ、こんなところで何してるの」
「私はちょっとした気分転換」
確かにここはあまり人通りもなく、気分転換にはうってつけの場所かもしれない。
同僚グレースの返答を待つ間に何か都合のいい言い訳が思い浮かぶかと思ったが、それらしい言葉が出てくるよりも先に答えが返ってきたものなので、中途半端に開けた口をゆるゆると閉じるほかなかった。
「他の人には黙ってて……ほしい、です」
「名前が一方的にクジラの鳴き声と会話すること?」
「そう!それ!恥ずかしいから改めて言葉にしないでよ!」
グレースは時折、信じられないほど意地が悪くなることがある。
普段は人畜無害で親切な同僚だが、主に冷やかしのネタになりそうなことを前にした時の嬉しそうな顔と言ったら。
他の人たちは理知的で落ち着いているのに対して、私だけが感情に手足をはやしてし生きてしまっているせいで、グレースのからかいの餌食になった回数は両手では足りない。
今のような私にとって恥ずかしい話も、グレースがいちばん握っているだろう―――けれど彼女はそれを人に言い触らすことも決してしないため、私も本気で嫌がっているわけではなかった―――。
いちばん見られてはいけない人に見られてしまった。
絶望を体現するように、私はよろよろと壁に背中をつけてもたれかかった。
「名前のそういうピュアなところ、私はいいと思うわ」
「―――え……」
思いもよらないグレースの言葉に、肩がぴくりと跳ねる。
「私にはない面だから共感はしてあげられないけれど、ほら、自分にないものには惹かれちゃうでしょ?」
すぐ隣にグレースが並び、二人して壁に背中を預ける。
いつもあまり意識していなかったので、グレースの肩の位置が存外高いことに喉の奥がぐっと動いた。
並んだ足の大きさも、全然違う。
「ところで、どうしてザトウクジラが歌うか知ってる?」
「え?ううん、知らない。どうして?」
油断していたところで、とん、と肩の先にグレースの腕が触れて、少しだけ体が右に揺れる。
何を考えていたのだろうか、私は。
「求愛のためなんだって」
そう言われて、妙に納得した。
クジャクやカメレオンだって、求愛のための羽やダンスを備えているのだ。
それがクジラは歌なのかと思えば、よりロマンチックなものに感じた。
「名前がメスのクジラだったら番決定ね。返事してたし」
「あれは違うよ!あ……合いの手だから!」
「合いの手!」
普段よりも少しだけ大きな声で、グレースが笑った。
言うことなすことすべてが裏目に出てしまっている気がして、再び熱を持った顔を床に向けて伏せる。
それでもなお、グレースが肩を揺らして笑っているのがわかった。
「来世はクジラになって歌に応えるつもりだから、今から練習してるんです」
開き直るついでに背中に力を込めてぱんっと壁から離れ、いまだにお腹を抱えるグレースに背を向けて歩き出す。
カフェテリアで冷たいドリンクでも飲もう。
「じゃあその時は私が歌ってあげるから、ちゃんと見つけなさいよ」
200ヘルツの声が、廊下に反響した。
「それ―――」
がばりと振り返ったところで、当の本人は既に離れたところを歩いていて、ひらひらとこちらに手を振っていた。
からかわれはするものの、こんな冗談を言われたのは初めてだった。
何を考えているのだろうか、グレースという同僚は。