廊下の向こう側にその姿を見つけた途端、胸の辺りであたたかなインクがじわっと弾けて、途端に足取りが軽くなる。
「チリさーん!」
細い腰の周りでゆらゆらと揺れていた長い髪が、ふわりと舞う。
こちらを振り返った顔に、私の頬が瞬く間に熱を帯びていくのがわかった。
私の姿を認めたと同時にその薄い唇の端が完璧な角度に持ち上がるのが見えて、また胸が高鳴った。
「やっとチリさんに会えた」
「やっとって、朝も話したやろ」
「職場で会えたのは今日これが初めてだもん」
「なんや欲張りやなぁ、名前は」
同棲と言うには少し違うけれど、チリさんと私は一週間のほとんどを同じ家で過ごしていて、今朝も家を出る前に他愛のないことを話したばかりだ。
今日の晩ご飯は何がいいだとか、朝起きたらチリさんにくっつきすぎて寝汗をかいていただとか、そういう程度。
だけど私からしてみれば家───所謂プライベートモードのチリさんと、職場で見られる四天王モードのチリさんはまた少し違うような気がして新鮮みがあるのだ。
可能であれば、家でも職場でもチリさんと話をしたい。
とは言っても、チリさんの態度に変化があるのかと言われれば、それはノーだ。
オンオフで特別切り替わることもないけれど、職場で会えるとそれだけで頑張れる。
つまるところ私自身のモチベーションに関わってくるため、職場でもチリさんに会えるのと会えないのとでは大きな違いがあった。
チリさんと私は主務が違うため、同じ職場とは言え会えないことも普通にあるので、こうして偶然会えたハプニングは私にとって特別ボーナスのようなものだった───これだけ感情が振り回されるのだから、職場恋愛は反対派だったと言うのに───。
「チリさん、疲れてる?」
「わかる?午前中からぶっ通しで一次試験のスケジュール入っとってな。さすがのチリちゃんも肩凝りそうやわ」
言いながら軽くストレッチをするチリさんをじっと見つめていると、おつかれさまです、という労いを即座に追い越すほどの別の感情が私のなかでパッと芽生える。
「チリさん、無防備に人間の急所を晒しすぎです」
チリさんと一緒にいることでこれと言った不満はないのだけれど、強いて言うなら、チリさんにいじめられる回数が少なくはないことに多少の不公平さを感じていた。
「好きな子ほどいじめたい言うやろ」なんてこちらが反論する気がなくなる言い訳を並べては、チリさんはいつも私を良いようにいじめてくる。
頭の回転の速さも違うせいで防げるはずもなく、私はいつもされるがままだった。
そんなチリさんに今、一泡吹かせられるかもしれない。
私にしてはいい仕返しができそうなひらめきに、口元がにやにやと緩むのが抑えられなかった。
頭上に上げた肘に手をかけてぐっと体を左右に伸ばすチリさんは、それはそれは見事に私に脇腹を晒している。
私はいつも死にそうになるほどチリさんにそこを擽られているので、その時のことを思い出してしまい服の下で鳥肌が立った。
隙を突いてチリさんを擽れる好機を探っていると、心底驚いたと言わんばかりにチリさんが口を開いた。
「名前知らんの?筋肉伸ばしてる最中って擽ったないねんで」
「え」
二重の驚きだった。
私の考えていることがチリさんにバレバレだったことと、そしてチリさんから告げられたもっと早くに知っておきたかった衝撃の事実に、私は咄嗟に肘を上げて脇の筋肉に力を込めた。
「なわけないやろ」
「はにゃあ!?」
涼しい顔をして平然と嘘を吐いたチリさんの指が脇腹に埋まり、私のとんでもない悲鳴が廊下に響き渡る。
職場ということでさすがに一瞬で解放されたものの、私はまだぞわぞわとするそこに眉を寄せた。
チリさんに「ニャオハおったな」とまで言われた今の悲鳴が、誰の耳にも入っていませんように。
「悔しい……いつまでもチリさんに仕返しができない……」
これが本当に嫌なことだったら、私はとっくの昔にやめてほしいと訴えているだろうし、それはチリさんも素直に受け入れてくれただろう。
けれどこれもチリさんの愛情表現だと思えば嫌じゃないし、むしろ嬉しいくらいだ。
しかし、それとこれとは話が違う。
いつも一方的にやられっぱなしというのが腑に落ちない。
私だって、チリさんが擽ったがってのたうち回る姿が見たい。
いろんなチリさんの顔が見たいのだ。
そんな思いで唇を尖らせる私に、チリさんは「へえ?」と淡泊な言葉を零した。
「名前はチリちゃんに仕返ししたいん?ほなしてええよ」
「え?」
そう言って両腕を上げたチリさんを凝視する。
これには何か裏があるのだろうか。
それとも、本気で落ち込む私を見て同情してくれたのだろうか。
読めない。チリさんの考えていることがまったく読めない。
「どうしたん?」と小首を傾げたチリさんの耳のピアスが、天井の証明を受けてきらりと光る。
まるでそれがチリさんの魅力を具現化した輝きに見えて、くらりと傾きそうになる足をなんとか踏み締めて持ち堪えた。
ゆっくりとチリさんとの距離を詰めて、近くなったチリさんの体に自分の手の平を水平に伸ばす。
剥き出しで展示された美術品に触ろうとしているような罪悪感が、私の動きを確実に鈍らせていた。
「って言うのもウソに決まっとるやろ!」
「はにゃあ!?」
驚くほどの速さでチリさんの腕が上から体に回り、力いっぱいの抱擁と共に腕の中に閉じ込められる。
職場で行うにはあまりにも堂々とした触れ合いに、私は今日一番の心臓の音を体中で感じた。
「ほんまかわええなぁ名前は」
「嘘ついた!チリさんが嘘ついた!ひどい!」
私をからかうためなら平気で嘘をつくチリさんも慣れたものだけれど───まあ、人を傷つける嘘じゃないし───、その結果こうして公の場でぎゅっと抱き締められると動揺してしまう。
大して思ってもいないことを照れ隠しで叫べば、チリさんは私に回した腕に更に力を込めた。
「チリちゃん、みんなが知らん名前を独占したいんや。許したって」
耳にぴたりとくっついた唇がそう紡いで、思わず口から意味のない音が漏れそうになる。
こうかは ばつぐんだ
いつの日か、チリさんと初めて1on1のポケモンバトルをした時に、相棒のタイプ相性が悪くてチリさんにこてんぱんにされた日のことが走馬燈のように駆け巡った。
目の前が真っ暗になりそうだ。
どれだけ悔しくても結局私はチリさんのことが大好きなので、その他にも言いたかった言葉はしおしおと萎んでいき、こちらもチリさんの背中に腕を回して「しかたないなあ」と未来の自分がただただ後悔する返答しかできなかった。