「好きだ」


たった一言だけど、されど一言。

一ヶ月前の言葉を思い出しただけで、自分の口許がどんどん緩んでいくのがわかる。
可笑しいね。

そろそろ薄着でも過ごせる気温の中、私は廊下の隅に座り込んでいた。
通り過ぎる人はそんな私を大して気にも留めず、楽しげに目の前を通り過ぎていく。
その方がこっちとしても都合良いですけど。
だって、今ものすごーく―――


「おーい、顔ニヤけてんぞー」


分かってますー、と自覚していることをきちんと白状しておく。
一人でニヤニヤしていたにも関わらず、目の前で手を振る世界一素敵な彼氏は、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべていた。

私は世界一素敵で世界中の人に自慢したくなる彼氏に目を向けて、太陽みたいに眩しい笑みを瞼の裏に焼き付けた。


「栄口、もうミーティング終わった?」
「うん、お待たせ」


簡単な言葉を一言二言交わすのって、こんなにも嬉しいことだっけ。
心臓がキュッと締め付けられて、気を緩めれば声があふれ出てしまいそうな、そんな感じ。


「帰ろっか」
「うん!」


雨がひどくならないうちに、という栄口の言葉で、そう言えば雨降ってたっけ、と今日の天候を思い出す。
手にちゃんと持っている傘のことも忘れてしまうなんて、あまりにも浮かれすぎじゃないだろうか。

パンッと広げた傘の上で、雨粒が踊って跳ねる。
隣に並んで歩くだけで、私の気持ちも雨粒のように軽やかだ。
二つ並んだ傘を見て、周りの人はカップルだと思ってくれるのだろうか。


「雨多いねー」
「もう梅雨だもんな」
「野球できない日多いでしょ?」
「そうそう、体鈍っちゃいそうだよ」


それでも栄口は笑う。

どうしてそんなに綺麗に笑うんだろう。
なんていつもみたいに考えてみるけれど、それよりも、今日は右手の寂しさがいっそう募った。

付き合い始めて一ヶ月。
告白をしたのは、栄口の方だった。
私も栄口のことが好きだったので、あの時は本当に嬉しかった。
夢じゃないかって、何度も思った。
今なら死んじゃってもいいとすら思えた。

それから彼氏彼女として送った一ヶ月は、今まで生きてきた中で一番充実していた気がする。
他愛ないことが、こんなにも愛しくなるなんて知らなかった。

栄口から、いろんなことをたくさん教えてもらった。
私も栄口にいろんなことをたくさん教えてあげた。

そんなにも満たされたなかで、それでも寂しいと訴えかけるのは私の右手だった。

一ヶ月。
約三十日間。

私はまだ、栄口と手を繋いでいません。

繋ぎたいのに、たった一歩が踏み出せない。
手繋ごう、なんて言える勇気がでなかった。
私の横で、プラプラと宙を彷徨う左手に触れるだけの、勇気がない。


「気温も上がってきてるよなー」
「ジメジメしてるね。髪の毛が言うこと聞かないからやだなー」


栄口の何気ない話題に乗ることは、こんなにも簡単なのに。

でもよく考えたら、栄口の方がいっぱい勇気を使ってくれた。
人に「手を繋ぎましょう」と言うのと、「好きです」と言うのだったら―――後者の方が、すごく勇気がいるに決まってる。

栄口は、そんな勇気を私にぶつけてくれた。

それなのに私は。


「お、雨やんだな」
「ホントだ」
「これで虹の一つでも出てくれたらまだ気持ちもあがるのに」


一日にたくさんの笑顔を見せてくれる栄口に、私のちっぽけな勇気をぶつけたい。
ちっぽけな勇気すら出せない私に、大きな勇気をぶつけてくれた栄口に―――


「……栄口」
「どうした?」
「―――……手、つなご」


久し振りに見る、栄口の驚いた顔。
私が栄口の告白に「はい」って返事をした時以来だ。

指先が震える。
睫毛が震えた。
髪の毛が風と一緒に宙を舞う。

キュッと唇を横一文字に結んで、十センチ上を見上げる。


「―――ん、繋ごう」


今日一番の、栄口の最高の笑顔。
私が栄口の告白に「はい」って返事をした時以来かもしれない。

同じ感想しか出せない彼の表情に懐かしさを覚えながらも、私は差し出されたその左手を少し躊躇いながら握った。

野球をしている栄口の手は、思ってたよりも大きくて温かかった。


「あー……もしかして名字、ずっと手ぇ繋ぎたいとか思ってたり……?」
「う、うん……」
「そっか。ゴメンな、オレから言えばよかった」


栄口の優しさに、胸のなかで弾けたカプセルがじわっと滲んで広がっていく。
私は必死に首を左右に振って、気にしてないと言い張ってみせた。


「栄口が大きなこと言ってくれたから、これくらは私が言いたいの」
「大きなこと?なにそれ」
「私に好きって、先に言ってくれたでしょ」


そう言って栄口に負けないくらいの笑顔を見せたら、まだあまり日に焼けていない耳を真っ赤にしてしまった。
たぶん、その時のことを思い出したんだと思う。

栄口はもごもごと口を動かした後、そっか、と小さく呟いて少し強く手を握ってくれた。

畳んだばかりの傘から、踊り続けていた水滴が垂れる。
雨で色の変わったコンクリートの道を歩けば、雨の日の特有のにおいが肌を撫でた。

勇気を振り絞った私に、虹の一つでもプレゼントしてくれないかな。







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