この仕事をしていると、何度も目頭が熱くなる場面に遭遇する。
お客様の口から語れる旅の目的や、柔らかな感謝の言葉。
特別涙腺が弱い私にとって、こうした些細な言葉が引き金になることが多かった。

もちろん、辛いこともある。
肉体的にも、精神的にも。
お客様が心から寛げる時間を提供するためには、そんな苦痛もぐっと飲み込まなければならない。

そんな感情が忙しく交互に押し寄せる日々のなかで、今日の出来事は仲居人生のアルバムの1ページ目を飾るに相応しかった。


「徹さん」


下の目蓋から零れそうになる熱を湛えたまま、厨房に滑り込んで目当ての背中に呼びかける。

朝の仕込みが終わった厨房は物足りなさを覚える程に静かで、慌ただしかった頃の名残と言えば、明日の朝に提供されるメニューを想像させる優しい残り香くらいだろうか。


「なんだ、お前まだ着替えてないのかよ。こっちももう終わるから、早く支度して来いよ」
「菊の間に宿泊されてるお客様がね、ご飯がすっごく美味しかったって」


和帽子を脱いだ徹さんの言葉に被せながら、私はただ胸の前で手を握り締める。
いつもは日が暮れると共に手足の先が冷たくなり始める頃だったが、興奮した体は芯から熱が発せられていてポカポカと温かい。

お客様がお料理を褒めてくださった時、私は必ず調理場の人たちにそれを伝えるように心がけている。

調理場の人たちは、仲居とは違いお客様と接する場面が少ない。
当然、お料理に対する賞賛を直接受け取るのも、どちらかと言えば作った本人たちではなく仲居の方が多くなる。

お料理が「美味しい」と言ってもらえることは、板前さんにとって1番の褒め言葉ではないだろうか。
少なくとも私は自分の作った食事を「美味しい」と言ってもらえることが1番嬉しいし、徹さんたちも美味しいものを提供するという目的で調理場に立っているのだから、そこの認識に誤差はないはずだ。

私がお客様から「美味しい」をいただいた時、蓮さんやみんちゃんには伝書鳩のようにお客様の言葉をそのまま伝えている。
そして、その2人以上に一緒にいる時間の長い相手ともなれば、そこにプラスの情報が加わることも少なくはない。


「……泣いてんのか?」
「嬉し泣きです」
「じゃないと困るけどよ」


眉を顰めながらも、私の目の際をなぞる指先は優しかった。

以前、急に泣かれるとどうしていいか判らない、と言われたことがある。
いつも徹さんの前で強がりばかりを言ってしまうので、きっとそのせいだと思う。
強がりの方が目立っているだけで、徹さんに見せていないだけで、徹さんが知らないだけで、存外私は泣き虫な女だ。

時々それが徹さんの前で出てしまい、今がまさに、その時なだけだ。


「で、名前が泣くほどの何があった?」


蓮さんはいない。
勤怠表を見れば、みんちゃんも数十分前にあがったことになっている。
文字通り人気のない厨房の空気に、徹さんの優しげな声が混ざった。

普段は職場で甘えたりなんてしないけれど、今はこの手が愛しくてしかたがない。
目元に触れる指にほんの僅かばかり擦り寄ってみれば、徹さんが驚きで身を固くしたのが手に取るようにわかった。
本当に分かり易い人だ。


「菊の間のお客様、初めてご利用される老夫婦のお客様だったんですけど」
「ああ」
「旦那様が何度も満腹だって仰るので、お食事はお口に合いましたか?ってお声がけしたんですよ。そしたら奥様が、最近夫の食が細くなってたんだけど、今日は久し振りにたくさん頂きましたって」
「…………」


病気でもされていたのか、それともただ食事の量が減っていたのか。
そればかりは判らないけれど、そんな背景があった上でお料理を完食してくれたということは、お料理を作った本人でもないのに喜ばしいことだった。

今までも「美味しかった」という言葉をもらうことはあったが、今回は特に胸がぎゅっと掴まれるような言葉だった。
それを、徹さんに伝えたかったのだ。


「旦那様が美味しくたくさん召し上がってくださったことも嬉しいですし、そんなご飯を徹さんたちが作っていることもすごく嬉しくて」
「……そうか」


すぐ隣にいる徹さんの法被からは、魚と砂糖醤油の香りがする。
忘れていた空腹を思い出させるみたいな明日の朝食の面影を感じながら、この香りの元がお客様に笑顔を届けているのだと実感した。


「───自慢の二番さんですね」
「そこは彼氏じゃねえのかよ」


徹さんの笑いを含んだ声が、私の前髪を揺らす。
それにつられて私も笑みが零れて、目の前の大きな手に指を滑り込ませた。
そうすれば、包丁を握って硬くなった手の平が、しっかりと握り返してくれた。
初めて手を繋いだ時にその握力の強さにびっくりして以来、私に気づかれないように力加減を気にしてくれていることが可愛らしいと思える。


「お前のその繊細な情緒は相変わらず凄ぇな。ウチ自慢の仲居だぜ」
「そこは彼女じゃないんですか?」


職場だということを踏まえて口には出して言わないけれど、本当に、徹さんは自慢の彼氏だ。

蛇口から最後の水滴が落ちた音を皮切りに、帰るか、という徹さんの声が背中を押す。


「今日はご飯たくさん食べられそう」
「それは俺に作れって言ってんのか?」
「作ってくれないの?」



呆れながらも承諾してくれる徹さんは、完全にプライベートのスイッチに切り替わっていた。
そんな彼の後を追う私も仕事モードを抜け出して、しっくりとくる話し方のまま一瞬だけ腕に絡みついて、それぞれの更衣室へと別れる。

ご飯を作ってもらう代わりに、お酌をしてあげよう。
それから、おつまみくらいは作ってあげてもいいかもしれない。

そんなことを考えながら、私の仲居人生に厚みを増やしてくれた今日1日の幸せを噛み締めるのだった。







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