蝉の声がやけに響く昼下がり。
空は青々と広がり、遠くで夏雲がふっくらと膨らんでいる。
元より九太を邪険にしていた多々良が発したあまりにも厳しすぎる物言いに、何故か名前が胸を痛めていた。
気まずそうにちらりと九太を盗み見れば、何を考えているのかわからない表情で地面を見つめている。
消えてしまいそうだ。
ふと、そんな思いが名前の脳裏を過ぎる。
「きゅ、きゅうた」
「………」
「あのね、わたし、今からお稽古するから、手伝ってくれない…かな…?」
「……生っちょろいおれにできんの、そんなこと」
やはり多々良の言葉を気にしているようだ。
否、あの言葉を気にしない者はいないだろう。
繊細な子供なら、尚更。
捻くれた返事ではあったが、なんとか前向きに捉えた名前は大きく頷いて九太に駆け寄った。
「わたしが剣を振るうから、九太はそれを防ぐだけでいいよ」
はい、と九太に木刀を手渡し、名前も続いて木刀を構える。
「ちょ、ちょっと待てよ!おれ、構え方なんて知らねぇって!」
「大丈夫!わたしの剣を防ぐだけでいいから」
九太の制止の声も聞かず、名前は木刀を振りかぶる。
脇腹、向こう臑、二の腕。
一定の速度を保ちつつ、次々と九太の体に木刀を打ち込んでいく。
最初こそたじろぎながら木刀を受け止めていた九太だったが、次第に名前の太刀筋を読めるようになったのか、危なげなく防ぐことが可能になっていた。
そればかりか、ただ防ぐだけの動きをしていた九太の木刀が、時折名前の動きと同じそれで反撃の色を見せている。
しかしそのまま反撃してこないのは、相手が名前であることと、名前から「防ぐだけでいい」と言われているからだろう。
「―――っ…!」
不意に九太が息を呑み、次第に名前の動きが止まる。
名前が泣いていた。
両目いっぱいに涙を溜めて、漏れる嗚咽を堪えている。
艶やかな夏草の上に、名前の細い顎を伝った雫がパタリと零れた。
「ど、どうしたんだよ急に…」
稽古の相手を頼まれただけで、まさか泣かれるとは微塵にも思っていなかった九太が困惑したように名前の顔を覗き込む。
人間界にいた時もそうだったが、異性に泣かれるのは面倒くさい。
どうすれば泣き止むだろうかと思惑していると、目の前の少女との距離がぐんと近くなり、気付けば九太は名前に抱き締められていた。
肩の上のチコが、驚いたように鳴いた。
「―――えぇ!?名前!?」
カラン、と木刀の落ちる乾いた音が響く。
背中に回された腕が熱い。
耳に触れる熱は、名前の側頭部だろうか。
九太はどうするべきか困惑を極め、木刀が滑り落ちた手をあたふたと泳がせた。
「―――きゅう、たのっ、居場所は…っ、ここ、だからね…!」
しゃくり上げながら名前が必死に紡いだ言葉に、九太はハッと息を詰めた。
多々良の声が蘇る。
ここにゃお前の居場所なんかねェ。
確かに九太は、この場所での存在を否定された。
熊徹にも見放されてしまえば、九太は正真正銘この世界での居場所を失ってしまうだろう。
それでも、名前は九太に居場所を与えようとした。
言葉にしろ態度にしろ、幼い名前はそれを伝える術をあまり持ち合わせていない。
だからこうして、九太を抱き締めることで居場所を伝えようとしたのだった。
遙か昔、たった一度だけ熊徹に抱き締められた時の温もりが、名前のなかで幸せな記憶として存在していた。
多々さんの言うことなんて気にしなくていい。
多々さんの分からず屋。
九太の耳元で多々良に向かって口々に文句を言うものなので、九太は思わず笑ってしまった。
九太が笑う理由がわからない名前は、なぜ笑うのかと九太の顔を見ようと背中を反らす。
けれど、それは叶わなかった。
「ありがとう、名前」
名前の背中に、痛いほどの力で九太の腕が回った。
合わせた胸を通して、互いの鼓動を交換する。
九太の胸の音を感じながら、名前はゆっくりと目を伏せた。
名前は確信していた。
熊徹の言葉を否定していた九太の胸の中にも、一本の剣が生まれようとしていることに。
口ではああ言っていたものの、熊徹の言わんとすることを九太はとうの昔に理解していたことを。
ただ、熊徹の態度に素直になれないだけなのだ。
熊徹の弟子になることを決めた九太に対して、熊徹は師匠らしかぬ物言いで事を進めようとする。
九太は自分が何も知らないことを自覚しているので、師匠である熊徹に解る言葉で教えてほしかったのだ。
故に二人の間には溝ができ、九太も意地になって熊徹の言葉に耳を傾けようとしなくなってしまった。
要するに、二人とも不器用すぎるのだ。
早く二人が歩み寄れるようになれば、もっと良い関係を築けるだろう。
名前は幾分か落ち着いた心持ちで、そっと九太から体を離した。
「そう言えば九太、わたしに反撃しようとしてたね」
「あ…その、ごめん」
「違うよ、そうじゃないの。
構え方も何も知らないのに、反撃できるタイミングをちゃんと見抜いてたし、振り抜き方も解ってるみたいだった」
九太の手を引いて長椅子に座らせた名前は、百秋坊が置きっ放しにしていた急須で茶を注いで九太に手渡す。
そのまま九太の肩にいたチコを手の平に乗せ、自分の湯飲みに注いだ茶を静かに差し出せば、キュッと嬉しそうに鳴いて舐めるように冷茶の水面に顔をつけた。
その隣の九太と言えば、名前から受け取った茶を啜りながら先ほどの稽古の様子を思い出しているようだった。
その顔はまさに、言われてみれば、のそれだ。
「…名前の動きを見てたら、なんとなく、動けたんだ」
「そっか」
靴を脱いだ名前の素足が、視界の端でスッと伸びる。
九太とそう変わらない大きさをしている足なのに、その長く綺麗な指が目を引いた。
暫く、どちらとも音を発しない時間が流れた。
蝉時雨の下、日差しの加減で僅かに陰がさし、時折吹く風の涼しさが汗を掻いた身に優しく染みた。
「わたしも独学で剣を学んだんだけど」
「そうなの!?あんなにすげぇのに…」
「うん、お父さんが"おんなは剣なんて持つんじゃねぇ!"って許してくれなくって」
言いそう。
直感でそう思った九太は、苦笑いを浮かべた。
「でね、やっぱり何も知らないと、どうすれば良いかも解らないでしょ?」
「…うん、まさにそれ」
「わたしの場合、一郎彦―――あ、猪王山さんの息子ね。一郎彦に、剣の持ち方だけでもー!って頼み込んだの」
「アイツこそ言いそうじゃん、おんなが剣なんてって」
「ふふっ、やっぱり言われちゃったよ。
…でもね、じゃないと誰も守れないからって必死に頭を下げたら、持ち方と、ちょっとした基本だけ教えてくれたの―――すっごくイヤそうな顔で!」
九太と名前が、声を出して笑い合う。
つられたチコが、名前の膝の上で跳ねた。
一郎彦とはまだ話したことのない九太だったが、恐らく一郎彦は、名前のことを大切にしているのだろうということは何となく感じ取っている。
昨日市場で一郎彦を見かけた際も、名前を見つめる目はとても優しかったことを覚えている。
「で、わたしはずっとお父さんのマネをしたの」
「マネ?」
「握り方はわかったから、振り方は、お父さんの後ろ姿をずっとマネし続けたの。
―――それだけ」
マネをするって、結構大事なんだよ。
そう言って目を細めた名前は、九太と目が合うとニコリと笑った。