何かあったわけではない。
むしろ、何もないからこそ、ここまで気分が落ち込むのかもしれない。

夜の帳が降りた海原というのは、日中のそれとは違い、どうしてこうも静かに聞こえるのだろう。
眠りについた海鳥の声を恋しく思いながらも、今はこの静寂が心地よかった。

甲板の縁に預けていた腕に、そっと額を押し当てる。
たっぷりと潮を含んだ木材の香りが、呼吸をするたびに鼻腔を擽っていく。
この船のなかで、3番目に落ち着く匂いだった。

1番目に愛しいと感じる香りを思い出したところで、再びモヤモヤとしたものが胸の中に渦巻いた。

サンジさんは、どうして私だったんだろう。

島を渡り歩いている身、仲間であるナミやロビンを筆頭に、今までにたくさんの綺麗な女性と出会ってきた。
そのたびにサンジさんは頭のてっぺんから足の先まで、体のすべてを使って"メロメロ"を表現する。
それくらい、綺麗な女の人が誰よりも好きな人だ。

なのに、なぜサンジさんは私を選んだのだろうか。
特筆すべき要素もない、こんな平凡を形にした私を。

ハア、と大きく息を吐き出す。
吐いたところで、再び木の香りを享受しようと肺を膨らませた───ところで、私の嗅覚を満たす香りが、3番目に好きな香りではなく、1番目に好きなそれに変わった。


「っ───」
「お…っと、どうしたの?風邪引くよ」


急に振り返った私に驚いた素振りを見せたサンジさんは、すぐにその目を細めて柔らかな微笑みを浮かべた。

考え事の主軸である本人が現れるとは思っていなかったので、彼に向ける言葉なんて一つも用意ができていない。
あー、とか、うーと意味を持たない音をただただ紡ぐ私に軽く首を傾げたサンジさんは、咥えていた煙草を消し、その長い足を進めた。

1番好きな香りが、とても近くなった。

背中が熱くなる。
開放感のある甲板だと言うのに、まるで密室のような閉塞感。
私を閉じ込めるように欄干に伸ばされた手が、私の手の上に重なる。
旋毛に唇が落とされたかと思うと、サンジさんの口が塞ぐように耳にぴったりとくっつけられた。


「何でも話すって約束したよね」
「えっと…それは…」
「それとも、おれには言えないことが悩みの種だったり?」
「うぅっ…」


サンジさんの低い声が、ビリビリと体の内側を這いずり回る。
私の弱点をすべて把握しているサンジさんにとって、固く閉ざした口を割るなんてことは朝飯前なんだろう。

観念した私はもぞもぞと体を動かして、こちらに覆い被さるサンジさんに向けて体を反転させる。
こちらを見下ろす右目は、相変わらず慈しみに満ち溢れてゆったりとしていた。


「……サンジさんは、なんで私を選んだの?」


ゆったりが、僅かに見開かれる。
それが段々と細められて、あ、怒った、なんて頭のどこかで悠長に彼を観察した。


「私、美人じゃないし…ドジだし、頭もすごくいいわけじゃないし、取り柄なんて…なにもなくって───」
「ストップ。
 それ以上言うようならおれも怒るぞ」


もう怒ってるよ、という言葉は、サンジさんの大きな手の平で押し込まれてしまった。

夜風に掬われた金色の髪が、濃紺の星空に放射線を描いた。
大好きな匂いが一瞬濃くなって、私の体に馴染んでいく。
私の口を塞ぎながら、自身の額に手の平を押し当てたサンジさんは、何かを考えるように宙を仰いでいた。
あまりにも綺麗なその横顔は、写真のように私の目蓋の裏に焼き付いた。


「───開き直るつもりはないんだが、女性レディを見ると居ても立ってもいられなくなるのは紛れもねェ事実だ。そのことで名前ちゃんを不安にさせちまっていたことも、今、自覚した。ごめんね」


先ほどの声色とは打って変わって、優しいそれが紡がれる。
サンジさんの熱い手がそろりと離れて、少しだけ口元が涼しく感じた。


「名前ちゃんの好きなところなんて、軽く見積もっても1000を超えちまう」
「そ、そんなにあるの?」
「おれとしてはこのまま語り明かすのも面白いところなんだが」


サンジさんの両手が、頬に伸びる。
その温もりに、思わず目頭が熱くなった。
私の顔の大きさと、サンジさんの手の大きさがちぐはぐで、僅かに唇に触れる母指球に柔く齧り付いた。
サンジさんが、くすりと笑った。


「1日に1つずつ、名前ちゃんの好きなところを教えていくよ」
「でも、それだと2年以上かかっちゃう」
「名前ちゃん、おれと別れたいの?
 2年後も、その先も、おれの気持ちは変わんねェよ」


包み隠さない、サンジさんらしいストレートな物言いに、カッと熱が顔に集まった。
私の頬に触れているサンジさんにも、絶対に気づかれている。

二重の意味で恥ずかしくなった私は、きゅっと唇を噛み締めるほかない。


「その代わり」


1番好きな匂いが、再びぐんっと近くなる。
最初は苦手だったサンジさんとのキスも、今となってはすっかり落ち着いてしまうのだから、私も十分に彼に毒されているのだ。

顎に触れていたチクチクとした感触が離れ、それを合図に伏せていた目を開ける。
特徴的な眉毛が、至近距離で確認できた。


「───1番目の理由は、名前ちゃんがあててくれよ」


私がサンジさんの香りを1番目に好きなように、彼の1番目も、案外簡単にあてられるかもしれない。







×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -