熊徹の弟子になる。

寝る前に九太の口からそう聞かされた名前は、自分のことのように喜んだ。
名前という家族はいたものの、誰一人として師弟の関係を上手く結べなかった熊徹にとって、これほど嬉しいことはないだろう。

手に取った新しい衣服に、名前の目の端に薄らと浮かんだ涙が思い返される。
当然それは嬉し涙の類だが、名前を泣かせてしまったと九太は一瞬ヒヤリとしたものだ。
そんな名前が用意してくれたこの世界の衣服を身に纏えば、同時に気が引き締まるような気がした。


「九太!かっこいいよ!」
「ほう、よく似合うぞ九太」


自分でも見慣れない姿を人に見られるのは、どことなく居心地が悪い。

堅い足取りで指定された稽古場に着けば、目を輝かせた名前と寛いだ様子の百秋坊と多々良、そして、仁王立ちをする熊徹に出迎えられた。
この世界の装いをした九太に、賞賛の言葉をかけたのは名前と百秋坊である。

九太と言えば、名前の稽古着姿から目が離せないでいた。
いつもは膝上までの襟付きのワンピースを翻している名前が、七分丈のパンツに、白のキャミソールに朱色の羽織を羽織っている。

かわいい。
そんな感想が、ふと九太の脳裏を掠めた。

名前と百秋坊をうるせェと一喝した熊徹は、相変わらずの仏頂面で九太を見下ろした。


「今からやるのを見てろ」


唐突に告げられた言葉に、恐らく稽古が始まるのだと察する。

何の合図もなしに始まった稽古に、九太は不安でいっぱいだった。

木の棒を片手で構えた熊徹がその腕を振り下ろせば、風とともに木の葉が舞い上がる。
そしてその腕を持ち上げると、木の葉も一緒に上空へと吹き上がる。
極め付けに、腕を真横に薙ぎ払えば、木の葉は一直線に真横へと流れていった。

風を操っているようだった。

見事見事!と、多々良の調子の良い野次が飛ぶ。
猪王山との対決でしか熊徹の剣捌きを知らない九太は、呆気に取られた様子で口を開けていた。


「こんくれェなら名前だってできるぜ」
「やれ名前!一発かましてやれー!」


投げ寄こされた棒を両手で受け取った名前は、多々良の囃し立てを背に熊徹と同じ構えを取る。

名前の細腕が掬い上げるように棒を縦に振れば、先ほどのように風と木の葉が絡み合いながら舞い上がった。
次いで横にも薙ぎ、熊徹と同じ太刀筋を辿る。

最後の仕上げに、と言わんばかりに反対側へと棒を振るえば、その動きに従った木の葉の群れが多々良の顔面を襲った。


「ッテメ!何しやがんだコノヤロー!」
「ごめんなさあい」


あまり反省していない声色で、舌をちろりと覗かせる。
顔付きこそ普段となんら変わりないというのに、いざ棒を振るった名前は熊徹以上の機敏さを披露してくれた。

やはり九太は、口をあんぐりと開けるほかない。


「解ったか。解ったらやれ」
「やれって…」


熊徹は名前から引ったくった棒を九太に投げ、乱暴な口振りで指示を寄こした。
お役目ごめんとなった名前は、百秋坊から茶を受け取りながら多々良の隣に腰を下ろす。
彼自慢の毛並みに刺さったままの木の葉を取り去りながら、もう一度ごめんなさいと謝っておく。

そして、遂に九太が棒を振るった。

その姿勢と言えば、据わっていない腰のまま腕を大きく振りかぶっているだけだ。
案の定、棒は九太の手を擦り抜けて吹っ飛んだり、振り抜き様に彼の足に直撃したりと散々だった。

その様子に多々良は笑いを堪えきれない様子だったが、百秋坊は師匠の務めと称して熊徹にきちんと説明するよう口添える。

その言葉に九太へと向き直った熊徹は、動作と言葉を加えて剣の振り方を教えた。


「……お父さん」


名前は呆れたように肩を落とした。

熊徹の説明と言えば、擬音語が雑に並んだ抽象的な説明ばかり。
基礎を踏まえている名前でさえ、理解するのに苦労するものだった。
これではいろはも知らぬ九太が解る筈もない。

先に折れたのは、言わずもがな九太だった。


「っ…やってられるか!そんな教え方でできるわけないだろ!?」
「ツベコベ言わずにやれ!」
「いやだ!」


やれ―――いやだ―――。
終わりの見えない応報が何度か続いた頃、見かねた百秋坊は助け船を出した。


「九太は初心者だ、もっと噛み砕いてだな…」
「ああ、分かったよ!じゃあ懇切丁寧に言ってやる!」


熊徹の怒鳴り声が響く稽古場で、名前は静かに茶を啜っていた。

熊徹の教え方は確かに正確とは言えない。
無茶な要望とも言えるそれは、九太に同情せざるを得ない。
それでも名前が口を挟まないのは、熊徹と九太が師弟関係にあることをよく理解しているからだった。

九太の師匠は熊徹であって、名前ではない。
名前が九太に剣を教えてしまえば、師匠として意気込む熊徹の気持ちを踏み躙ってしまう。
また、九太も師匠である熊徹をますます信用しなくなってしまうだろう。

二人の関係を尊重した結果、名前は黙っているという選択肢を選んだのだった。


「胸ンなかで剣を握るんだよ!」


遂に九太は「そんなもんあるか」と顔を背けてしまい、最後まで熊徹の言うことを聞くことはなかった。

九太の態度に匙を投げた熊徹は、言葉なくその場から立ち去って行った。
乱暴な足音と、熊徹を追いかけた百秋坊の声が遠のいていく。


「…フン、何が胸の剣だバーカ」
「お前ェよ、もう里に帰ェーんな」
「た、多々さんっ」


残された九太が引き続き棒を振るうと、今まで完全な傍観者を決め込んでいた多々良が上体を起こして九太を睨め付けた。
藪から棒にとんでもないことを言い出した多々良に、名前が慌てて制止の声をかけるも「お前ェは少し黙っとけ」と言われてしまえば黙らざるを得ない。
大人の凄みは怖いのだ。

涙目になってしまった名前を一蹴した多々良は、構わずに言葉を続ける。


「弟子っつったら五年や十年の修行はザラだ。そんな生っちょろい覚悟で務まるかよ。
 ただ食っていきてェだけなら、人間の世界で面倒見てもらえ。
 ここにゃお前の居場所なんかねェ。わかったら自分から失せろ」


こうして、稽古場には九太と名前のみが残った。







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