九太は起き抜けからむくれていた。

昨晩、名前と九太の距離が縮まった後。
家の中で寝るのは気まずいからと、九太はニワトリ小屋で寝ることを選択した。

当然名前は九太を止めよう自身の寝床を提案したが、自分の意地で名前に迷惑をかけるのは違うと九太は首を縦に振ることはなかった。
しばらく押し問答が続いたが、仕方なく折れたのは名前の方だった。

そして、熊徹に最悪な起こされ方をした。
騒音で目を覚ますほど不快なものはない。

青筋を立てた九太に軽く詫びながら熊徹が勧めた朝食は、所謂卵かけご飯だった。
熊徹が朝食当番の日の定番料理らしいそれは、味を想像しただけも悍ましい。

生の卵など、生臭くて食べられたものではない。

そう言えば熊徹と言い合いになり、ヒートアップしたそれは遂に追いかけ合いにまで発展した。
無理矢理卵を口に放り込もうとする熊徹に「大嫌いだ!」と言い放ち、持ち前の機敏さで裏道を走り回る。


「元の世界に帰ってやる」


そう口に出して誓えば、思い返されるのは名前の笑顔だった。
昨晩交わした名前とのやり取りが、僅かに九太の足を止める。

しかし、やはりあの男とやっていくなど到底無理な話だ。

人間だと露呈しないよう服で顔を隠しながら、市場の間をすり抜ける。

そこで真っ先に見つけたのは、朝から買い物に出かけていたらしい名前だった。
重たそうに籠を抱えながらも、その顔には笑顔を浮かべている。

やはり、あの笑顔が好きだ。

九太自身でも気付かないところで、そんな感情が渦巻いていく。
無邪気でたおやかな名前の笑顔を見ていると、荒立っていた心が嘘のように落ち着いていくのだ。

そんな名前の微笑みの先に、見知らぬ少年が二人立っていることに気付く。
猪の容姿をした少年が美味しそうに食べるパフェに、九太は人知れず唾を飲み込んだ。
もう一人は頭から猪の頭巾を被っていて、その体は人間の子供のように華奢だった。

あの二人は、名前とどういう関係なのだろうか。
楽しそうに談笑するその様子の中で、九太の知らない名前の顔が垣間見え、やっかみの感情が少し芽生える。

そこに現れた猪王山と呼ばれる男は、人混みの中に九太を追いかけてきた熊徹の姿を見つけるなり気さくに声をかけた。
九太は慌てて物陰に身を潜めたが、バケモノは色んな能力に長けているらしい。
あっさりと捕まってしまった。

この世界で人間は珍しいのか―――人間の世界でもバケモノは珍しいが―――、九太の登場によりその場にどよめきが起こる。

どうやら、この世界においての人間はとても厄介なものらしい。
人間は心に闇を宿し、もしその闇に飲まれようものなら手に負えなくなるだとか。
そんなことを猪王山が熊徹に告げていた。

猪王山には猪王山の意見があるように、熊徹には熊徹の言い分がある。
そんな言い合いが徐々に加熱し、遂には対決へと持ち込まれることになった。

初めて目の前で繰り広げられるぶつかり合いに、九太は溢れ出る好奇心が堪えきれなかった。

自身を摘まみ上げていた猪王山の弟子を蹴り上げれば、簡単に拘束が解かれた。
追っ手の目を欺きながら、ふと視界に入った名前の腕を取り人々の間を駆け抜ける。
人の波がまだ少ない場所に潜り込み、熊徹と猪王山の対決にのめり込んだ。


「猪王山!頑張れ!」


ふと響いた声に続き、次々と猪王山コールが巻き起こる。
熊徹を応援する声は一つもなく、あるとすれば隣で観戦している名前くらいだったが、その声も虚しく猪王山への声援に飲み込まれていった。

猪王山を応援する声が、猪王山の戦力になっている。

熊徹も、ひとりぼっちなのだ。

容赦なく打ち込まれる猪王山の攻撃に、九太は遂に堪えきれずに息を吸い込んだ。


「負けるな!!」


繋いだままの名前の手を握り締めながら、目一杯の大声を張り上げる。
驚いた名前の視線を隣から感じるも、九太の目は熊徹を捉えて離さない。

熊徹と視線がぶつかったかと思うと、次の瞬間に熊徹は猪王山によって吹き飛ばされてしまった。
誰が見ても、熊徹の敗北だった。

そこに宗師と呼ばれる兎のバケモノが現れ、何やら猪王山と言葉を交わしている。
猪王山と話している間、宗師はあちらこちらに姿を現しては消し、現しては消しを繰り返し猪王山を翻弄しているようだった。
猪王山との話を無理矢理締めた―――ように見えた―――宗師が姿を消した途端に、群がっていた野次馬たちも散り散りになっていった。

名前に支えられながら起き上がる熊徹の姿に、九太は一つの決意が芽生える。

今まで断固として拒絶していたことを受け入れることは、そう簡単にできるものではない。
しかし、熊徹の戦いを、独りで相手に挑む姿を目の当たりにした九太は、熊徹の弟子になりたいと思えて仕方がなかった。
魅せられたのだ。


熊徹の弟子になる。


決意の炎を灯した九太は、手始めに今朝方言われたばかりの禁止事項―――"好き嫌い禁止"を守ろうと、家に帰るなり出しっ放しになったままの飯に卵を割り解き、黄色く染まったそれを流し込んだ。
事情を知らない名前は突然の行動にポカンとしていたが、熊徹は嬉しそうに鼻息を荒くして笑った。

その後、食べ終わった食器の出しっ放し禁止!と名前が熊徹に怒鳴ったのは言うまでもない。


「そう言や名前」


熊徹に呼び止められた名前は、水作業で濡れた手をタオルで拭きながら熊徹に近寄った。

ホラ、と大きな手が、小さな手の上に重なる。


「―――これ…」
「すっかり忘れちまっていたが、土産だ」


手の平の上で光を受けて輝く髪留めに、名前は目を瞬かせた。
今まさに輝かせている瞳と同じ色の髪留めだ。


「ありがとう、お父さん!」
「ちなみに、コイツも手伝ってくれたからな」
「九太も?」
「店に案内して、ついでにアドバイスしただけだ」


人間界で見る熊徹は怖かっただろうに。
懇切丁寧に協力をしてくれた九太に、名前は胸の中が温かくなるのを感じた。

名前は受け取った髪留めを右耳のすぐ上につけ、九太ににこりと微笑んだ。


「九太、ありがとう!」
「……べつに」


自分でも頬が赤くなるのを感じ取った九太は、慌てて夕日に向かって顔を背けた。







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