通学中だったか、事務所に向かう途中だったかは覚えていない。
それ以上に印象に残っていたのは、そいつの眼差しだった。

そこそこ満員の電車のなかで、不審な空気を察知したあの日。

何気なく目を向けてみれば、スーツを着たオッサンの手が一人の女子高生の下半身に伸びている光景が飛び込んできた。
ギョッとして暫くその様子を凝視してみれば、どうやら今までに何度か攻防を繰り広げていたらしい。
オッサンは手の甲で掠めるようにそこに触れていて、女子高生はそれが当たるたびに身を捩ったりその箇所を払ったりしている。
ただ当たっているだけなのかもしれない、と思わせるようなその手口に、同性ながらとてつもない嫌悪が込み上げた。

さすがにヤバいと思ったのは、オッサンの腰がその女子高生に押しつけられた時だ。


「おい」
「いい加減にしてよ!」


俺の手がオッサンの腕を掴んだのと、女子高生が勢いよくオッサンに振り替えったのは、ほぼ同時だった。
オッサンの肩越しに、怒りに赤く染まった顔に揺れる、強気につり上がった目とかち合った。

それが、名字との出会いだった。

同じ学校というのは制服で判っていたが、それをきっかけに学年まで同じだったということが判明し、以来名字とは顔を合わせば他愛ないことを話すようになった。

音楽が好きで、よく笑うやつ。

名字の印象はそんな感じだ。
自分で楽器を触ることはないらしいが、音楽は聴くのも歌うのも好きなんだとはにかんだ横顔に、妙にドキッとしたことを覚えている。

そんな自分も音楽に携わっている人間の一人だったが、なぜかそのことを名字に話すのは躊躇われ、Fairy Aprilのことは伏せて相槌を打っていた。
いつの日だったか、名字の受け答えに少しのぎこちなさがあったことがあった。
名字の音楽に関するアンテナは絶妙に広く、あらゆる情報を傍受することを得意としているので、恐らくFairy Aprilというバンドのことやメンバーのことを知ったのかもしれない。

それでも、俺の口からそれを伝えることはなかった。

名字と言葉を交わす毎に、自分が名字で満たされていくのがわかる。
あの夜に感じた熱にも似たような、それよりももっと熱いような。

誰が聞いても、言われるまでもなくその感情は自覚できる。

だからこそ、名字との間に変な距離を作りたくなかったのだ。
名字が好きだと言うFairy Aprilを自らの手で挟んでしまえば、七瀬一真という存在に違う膜がかかりそうな気がした。

だから、俺の口からは言えなかった。


「明日ね、大好きなバンドの新曲が発売されるんだ」


今日の話題も、特に鎌をかけたわけではなさそうだ。
純粋に己の感情を吐露した声色だったからこそ、確実に胸は高鳴る。
それと同時に、嫌な胸騒ぎが走った。

明日と言えば、俺たちFairy Aprilの新曲の発売日だ。

以前、俺が街で助けた女───と思っていたが、実は男だったことが判明した───に向けて曲を書いたことがある。
自分で言うのも小っ恥ずかしい上に、俺の一方的な勘違いだったのでいっそのことなかったことにしてしまいたい程の曲だ。
腹を切ることによってその曲が世に出ることを食い止められるなら、俺は謹んで腹を切るかもしれない。

それでも事務所やメンバーはそれを待ってはくれず、俺の羞恥心の塊がついに明日、解き放たれる。

名字の口から直接Fairy Aprilの名前を聞いたことはなかったが、高確率でフェアエプの新曲の話をしているのだと察知できた。
なぜなら、先ほど友人にその話をしている内容が聞こえてきたからだ。
言っておくが、偶然聞こえてきたもので間違っても盗み聞きをしたわけではない。

名字にあの曲を聴かれるのは不味い。
内々では解決した話なのだが、事情を知らないファンや外野、名字からしたらあの曲は誰かに向けたラブソング以外の何物でもないだろう。
実際ラブソングなのだからそこは否定できないのだが、その曲を作った頃の想いは既に一ミリも存在していない。むしろ自分の過去からも消してやりたいくらいだ。

要するに何が言いたいかと言うと、俺は名字のことが好きだ。
そんな名字に、名字ではない誰かを想って書いた曲を聴いて欲しくはない。
リアルタイムの感情を曲にするリスクは重々承知していたはずなのに、まさかこんな形で裏目に出るとは想像すらしていなかった。

腹を括るときが来たのかもしれない。

名字の友人を呼び出し、その手にチケットを握らせる。
もちろん、俺たちFairy Aprilのライブのチケットだ。
我ながらベタなやり方だったとは思う。

セトリにもしっかりと例の新曲が名を連ねているが、こうなりゃそれをも上書きするしかない。

俺の言葉で、直接。

チケットを握り締めた友人に詰め寄られ、後ろも確認せずに後退った後頭部が勢いのまま胸に当たる。
謝りながらこちらを振り返った名字の顔が、驚愕に見開かれた。

その眼差しだ。

ころころと色を変えて、空のように何色にも染まるその瞳。
それから、真っ直ぐと俺を射貫く目線。
瞬きをするたびに、目許に影が落ちる。

その眼差しに捕らわれた俺は、僅かに目を細めて名字を見下ろした。

次は俺が名字を捕らえて離さない番だ。







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