最終下校の鐘が鳴ったのは、一体何時間前なのだろうか。

名前が今の時間が"正常な時間"ではないことに気付けたのは、気分転換にと伸びをしながら目を向けた、いつもは宝石の欠片を散らしたような窓際に下りた濃紺の世界が目に入ったからだ。
大きな木々の隙間からは、恐らく食事時で盛り上がっているであろう寮の灯りが漏れている。
木の葉の動きに合わせて揺れるその灯りを捉えた途端、焦りの感情が心臓の辺りをチクチクと刺激した。

帰らなければ。

腕時計で時間を確認しながら、机の上に積んだ楽譜や台本を掻き集めて立ち上がったところで、機敏だったその動きがハッと止まる。

教室が明るかったことで、一切気にならなかったのだ。

廊下に繋がる扉の窓。
四角い形を象った窓枠の向こう側は、この教室のなかとは対照的なまでに深い色が広がっていた。


「───あっ…」


一番望んでいないタイミングで、一番思い返したくない記憶が自然と脳裏を流れるのはなぜだろうか。 

日中の、まだ太陽が真上にあった頃。
この教室のなかで、クラスメイトが交わしていた些細な会話。
偶然耳に入ってきただけの、BGMの一つに過ぎなかったはずのそれ。


「───それ以来、毎週水曜日の夜にはL棟の廊下で幽霊の目撃情報が!」
「出てくるのここの廊下なんだ、怖いね!」


自ら首を突っ込んだ会話なわけでもないのに、足が竦んで動けなかった。

毎週水曜日の、夜、L棟の廊下。
まさにその状況下に置かれたことに気付いてしまった今、時間も忘れて練習にのめり込んでしまった数時間前の自分を呪うことしかできない。

走って寮まで戻ろうか。
けれど、せめて教室の電気は消さなければいけない。
今は教室の灯りで廊下も多少はその恩恵を受けているが、消した途端に今以上の黒が広がるのは想像に容易い。
今日だけだと自分に言い聞かせて、電気もそのままに帰ってしまおうか。
しかし名前の根底にある優等生気質が、その選択肢だけはどうしても与えてくれそうにはなかった。

混乱する頭のなかで、映写機の映像のように脱出方法が一つずつ切り替わる。


「あ…ひ、ひかり、ちゃ…」


パッと浮かんだ唯一の同性である同級生の顔に、震える手でポケットからスマホを探り当てる。
普段なら夜遅くに女の子を呼び出すのは躊躇われたが、今の名前にそんな余裕は一ミリも残っていなかった。
縋れるものには縋りたいのだ。

IINEを開き、比較的上の方に上がっていたアイコンをタップした。


「名前ちゃんみーっけ」
「きゃあ!?」
「うわっ、びっくりした」


ガラッという音を立てて開いた扉と、次いで教室に響いた声に、名前はびくりと肩を震わせた。
名前を驚かせた相手も、まさかこんなにも驚かれるとは思っていなかったのか、少しだけ言葉を跳ねさせる。


「と、巴くん…」


暗闇に浮かび上がる水色の髪に、優しげに丸められた赤い瞳。
その姿をよく知ったクラスメイトのものだと認識すれば、自然と止めてしまっていた息がゆっくりと押し出されていった。
がくがくと震える腰を言い聞かせ、両目を閉じて胸に手を当てる。


「そうだよ…って、なんで名前ちゃん泣きそうなの?泣かないで!」


泣くつもりはなかったのだが、緊張の糸が解けたのか───熱くなった目頭を誤魔化すように名前は手の甲で目許を覆った。

擦ったらダメだよと駆け寄った巴は、目に添えられた名前の手の平にピンク色のハンカチを押しつけ、自分よりも低い位置にあるその頭を撫でる。


「名前ちゃんは笑ってた方がかわいいよ。
 でも、泣いちゃったのは僕が驚かしたからだよね?ごめんね」
「ちがう…ちがうよ、巴くんは悪くないの」


練習に夢中になって、時間を忘れてしまっていたこと。
気付けば夜になっていて、辺りが暗くなってしまっていたこと。
今日、教室で聞いた怖い話を思い出してしまい、帰れなくなってしまっていたこと。

鼻を啜りながら告げれば、でもそれって結果的に見れば僕のせいだよね、と再び謝られてしまった。


「怖がらせちゃった僕が言うのもヘンだけど、もう大丈夫。一緒に帰ろう」
「巴くん…なんか、ごめんね」
「それはこっちの台詞だよ。
 それに、名前ちゃんからはそんな言葉聞きたくないな」
「…ありがとう、巴くん」


うんうん、どういたしまて。


そう笑った巴は名前の手をしっかりと繋ぎ、教室の灯りを消して暗闇のなかへと足を踏み入れた。

真っ暗だと思われていた廊下は存外明るく、ふと窓の外へと目を向ければ、月上がりがぼんやりと廊下を照らしていた。
それでも暗いことには変わりないと言うのに、名前の少し前を歩く巴は堂々とした姿勢で寮を目指している。

普段、2年生と3年生の幼馴染みからあれ程までに心配されているというのに。
名前の手を引く巴の背中は、何よりも逞しく見えた。


「でも、名前ちゃんを最初に見つけられたのが僕でよかった」
「え?」


校舎を出たところで、肩越しに名前へと振り返った巴が笑みを零した。


「好きな女の子のこと、助けたいでしょ?」


思いもしない巴の言葉に、再び息が止まる。
声の出し方は嫌と言う程に熟知しているはずなのに、声の機能を失ってしまったように一言も出てこない。

夜風は涼しいはずなのに、名前の頬と、繋がれた手だけが熱かった。





「もー!ミーちゃんってばぜんっぜんこわがってない!おもしろくなーい!」
「あはは、だって、もしも好きな子が怖がってたら、僕が助けなきゃいけないもん」







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