冴先輩がアポなしで私の執務室に来る時は、自分のことで何か良いことがあった時か、もしくは私に関することで何かがあったか、もしくは言いたいことがあった時かのどちらかだ。
「さっきの授業、1年CL合同で鑑賞会しててさ」
あ、これは私に関することだ。
普段より数ミリ高い位置にある眉が目に入り、私は密かに心躍らせながらコーヒーを差し出した。
「やっぱ何度観ても好きだわ、お前のオリヴィア」
「わあ、それを観てたんですね」
アニメのヒロインにしては物足りない、と言われ続け、声優としての道が見えなくなっていた時のことだった。
洋画のヒロインの吹き替えをしてみないかと声がかかったことをきっかけに、こうして吹き替え声優としての名が売れ始めたのも、そこで出会ったオリヴィアのおかげと言っても過言ではない。
吹き替えの仕事を重ねるごとに演技力も身につき、今ではアニメのヒロインに抜擢されることも増えた。
私の声優人生を変えてくれたオリヴィアは、いつまでも私にとって大切な存在に変わりはない。
「あの純朴で真っ直ぐなところとか、最後には垢抜けてめちゃくちゃいい女になってるところとかなあ」
「最後のシーンは圧巻ですもんね。
私も吹き替えじゃなくて、オリヴィアそのものを演じてみたくなりましたもん」
「お前、歌も英語も上手いからいけそうだわ」
冴先輩が私を素直に褒めるのは、相当その役が私にハマっていた時くらいだ。
私のオリヴィアは何度も観てくれているらしいのに、そのたびにこうして違う角度から褒めてくれる。
それほど、オリヴィアの役にハマっていたんだと思うと妙に自信が湧く。
「冴先輩はアニメの方から引っ張りダコだから、あんまり吹き替えには来てくれないですよね。…あ、あと実写もか」
「俺と名前は主軸がまったく違うからな。俺としては吹き替えももっとやりたいんだがなあ」
荒木冴、と言えば、人気漫画の主人公やアイドルのキャラを務めたり、実際にファンの前で歌を歌ったりする───所謂スター声優だ。
それに比べて私は、主に海外作品の吹き替えをメインに活動しているので、海外アニメの吹き替えで実際に歌うことはあるけれど、ファンの前で歌ったり踊ったりということはあまりしない。
現場が違えば、学校以外で会える機会もほとんどないのだ。
同じ作品に出演したことも2回ほどあるけれど、私が端役だったり、逆に冴先輩がゲスト出演だったりで長い期間を一緒に過ごしたことはなかった。
実力派と言われている先輩のことだ。
きっと吹き替えのメインどころをさせても、上手くこなせてしまうんだろうな。
───観てみたい。
なんて思いが、一瞬脳裏を過ぎったところで、不意に執務室のドアからノックが響いた。
「先生、ちょっといいですか?───あ」
そう言って扉から顔を覗かせたのは、この学園の唯一の女子生徒である特待生のひかりちゃんだった。
いると思っていなかった冴先輩の姿にびっくりしたのか、開いた扉を途端に閉めようとしたのでそのまま入室を促す。
「あの、先ほどの授業で観た映画のオリヴィアが名前先生だったので」
「何か聞きたいこと?」
「は、はい!えっと…」
聞きたいことがあるにしては、顔を俯かせてなかなか本題を切り出そうとしない。
そんなひかりちゃんの姿に疑問符を浮かべるのは、私だけではなく冴先輩も同じだったらしい。
生徒の疑問を気にかけるあたり、先輩もすっかり教師が板についてきたと言うべきだろうか。
一人小さく頷いたひかりちゃんがこちらへと近づき、ちらりと先輩を見やった後に内緒話をする仕草を見せたので、従うようにその口元に耳を寄せてみる。
人の吐息が耳に当たるのは苦手だったけれど、かわいい生徒のためだ。
「キスをするお芝居って、どうやってるんですか…?」
「……あー」
それは確かに、冴先輩には聞きにくいお悩みだこと。
実のところ、私も吹き替えに腰を据えた頃にぶち当たった悩みの1つがそれだった。
先輩方の真似をして、回数を重ねるごとに習得したリップノイズは、確かに素人だと難しいかもしれない。
「名前先生は、アニメよりも洋画とか海外ドラマの方がたくさんあててきてますよね?
荒木先生が、この学園で1番その場数踏んでるのは名前先生だって…仰ってて…」
「俺?───あー、うん、名字先生が1番適任だろ」
突然名前を出されたにも関わらず、すぐにひかりちゃんの悩みが何かわかったような口振りに切り替わった冴先輩に思わず舌を巻く。
まあ、ひかりちゃん的にも先輩には聞きにくい内容だし、先輩もきっと教えにくい内容なので、私に回ってきて正解だとは思う。
ひかりちゃんの後ろを盗み見れば、楽しそうに緩められた双眸とかち合った。
出て行ってくれる気はないらしい。
「……ひかりちゃん、今日の放課後、時間ある?」
「え?大丈夫ですけど…」
「じゃあ放課後、もう一度ここに来てほしいな。その時に教えてあげる」
その言葉にパッと花を咲かせたひかりちゃんは、よろしくお願いします!と頭を下げて執務室を出て行った。
「ちぇー、あと少しだったんだがなぁ」
「先輩って時々ヘンなスイッチ入れてきますよね」
やっぱり下心があったのか。
今日の放課後、冴先輩に収録の仕事が入っていて助かった。
これほどまでに講師間で共有されるスケジュールが役だったことはない。
逆にこちらからからかってやろうか。
「冴先輩は?」
「ん?」
「どうやってやるんですか。教えてほしいです」
「…あのなぁ」
ほら見たことか。
明らかに困惑している冴先輩に、ふふんと鼻を鳴らす。
これで少しはからかわれる私の身にもなってくれるといいのだけれど。
特に、生徒の前では徹底的にやめてほしい。
「いや、でもまじで俺も教えてほしいわ。
名前はいつもどっちでやってんの?」
冴先輩は、妙なところで真面目なことを忘れていた。
面と向かって話すには恥ずかしさしかない内容なのに、それを問いかけてくる視線は真剣そのもの。
変なギャップを感じざるを得ない。
「…状況の距離感で使い分けます」
「あっつ〜い方は?」
「……まあ、手の甲のほうが声の漏れる範囲が狭くなりますよね」
「へえ、意外と頭使ってんだな」
「意外とって失礼ですよ!」
なぜ私だけが恥ずかしい思いをしているのだろうか。
つまるところのリップノイズの出し方を問われているのだけれど、実際に口で説明するのはとんでもなく恥ずかしい。
言葉にしてしまえば頭の中でその場面を思い描かれるだろうし、目の前で見せてもいないのに想像されるのは堪ったものではない。
冴先輩の視線から逃れるように、少しばかり踏ん反り返りながらマグカップに口をつける。
早く出て行ってくれないかな。
そう思ったところで、デスクの端に先輩のカップがかたりと着地する。
まさかおかわりか?と思い視線をあげたところで、私の体がピシリと凍り付いた。
「せん、ぱ…っ」
まだ仕事中です!という叫びが、冴先輩───冴に飲み込まれる。
いつ生徒が来るかもわからないこんな状況で、こんな場所で、一体この人は何を考えているのだろうか。
ああ、でも、抵抗しきれない自分も同罪か。
そんなことを考えている間にも、私の舌と唇が冴に弄ばれる。
仕事中だと言うのに、腰が砕けそうになるキスを遺憾なく発揮するのはやめてほしい。
「───やっぱ本物の方がいいわな」
時間にして恐らく1分。
60秒、私の唇を堪能した冴は、珍しく爽やかな笑みを浮かべていた。
「アイツには、これくらいから始めとけってアドバイスしといてくれ」
机の上に一度だけ拳を乗せて、冴は執務室から姿を消した。
すっかり忘れていたけれど、彼は私のリップノイズを聞いた後、必ず必要以上にキスを迫ってくる。
一度理由を聞いたときも、さっきと同じような台詞を言われて、その時はそんなものなのだろうかと納得してしまったけれど、まさか学校という仕事場でもそれが有効だなんて思ってもみなかった。
すっかりしてやられた私は、デスクの上に転がった棒付きの飴をポケットにしまい、羞恥心と悔しさを滲ませながら収録で帰りが遅くなるであろう冴に返上する仕返しのプランを練り始めることにした。