微睡みを掻い潜ることもなく、今朝は気が付けば目が覚めていた。
寝ている間に寒かったのか、口元まで引き上げられた布団からはみ出た目元がひんやりと冷たく、それだけでそれとなく今日一日の寒さを予想させられた。

ちらりと覗いたカーテンの先に銀世界が広がっていたので、足の指先を侵す冷たさにも納得がいった。

夜の稽古まで、本日のスケジュールは学校勤務のみとなっている。
冷えた空気により鼻腔の奥がツンと痛むのを堪えながら、宝石が丘までの道のりを歩いて行く。

この辺りは人通りが多いためか、自宅の窓から見えたほどの雪景色ではなかったが、人の通らない所や日陰になっている所にはしっかりと雪が積もっており、雪が踏み溶かされた歩道も気を抜けばツルリと滑りそうだ。
雪国ではないのでもちろんスノーブーツなど持っているはずもなく、オフの日に履くためのショートブーツを履いてきたものの、ヒールのおかげで普段使わない筋肉を酷使しながら通勤する羽目になった。


「(───あ)」


宝石が丘の門を超えた辺りで、少し先に見知った後ろ姿を見つけた。

普段はすらりとした背が小さくなったその姿に、ほんの僅かな悪戯心が芽生える。

ヒールの音を立てないよう細心の注意を払って駆け寄りながら、道脇の芝生に積もった白雪に手を差し込んで適当に手の平に乗ったそれをやんわりと握る。
雪と雪の間の空気を抜く程度に握られた雪玉が出来上がったと同時に、目の前を歩いていた人物が不意にこちらを振り返った。
すっかり近づいた距離に興奮してしまい、足音に気を配るのを忘れてしまっていたようだ。


「っおわ!冷て…!」
「おはようございます、冴先輩」


しかし、気付いたところで時はすでに遅し。
視線の交わりを合図に手の中の雪玉を投げつければ、手元が若干狂ったそれは荒木の顎に命中してサラリと砕け散った。
雪が当たったマフラーが僅かに白くなっていたが、それよりも荒木は肌に付着した雪の結晶を払い落とすことに躍起になっている。


「……お前、やってくれたな」
「すみません、冴先輩が隙だらけだったので」


肩を竦めては見せたものの、もちろんそこに反省の色など微塵も含まれてはいない。
当然、荒木もそのことは重々承知しているのか、口角を引き攣らせながらただただ名前を見据えるだけだった。

荒木冴と名字名前は学生時代の先輩後輩であり、社会人となった今は仕事場の同僚という妙な腐れ縁めいた関係を続けているが、この業界に生きている以上それはあまり珍しい話でもない。

荒木冴という男は、その歳ながらにして声優界の常識を打破した世代の1人であり、生徒たちから向けられる尊敬の眼差しは数知れず。
一方名字名前の伝説も負け劣らず、アフレコ現場においての表情や仕草を"人目に触れさせないのは勿体ない"と高く買われ、声優から舞台役者へのルートを開拓した実力者であった。

そんな8年という年月を共に過ごしてきた2人の間柄には、どうにも男女の間にあるはずの遠慮が垣間見えない。
いい歳をした大人が繰り広げる大小問わない応報は、宝石が丘の生徒の間でもまことしやかに囁かれ、2人は付き合っているんじゃないのかと一部の生徒に問い詰められたこともあったほどだ。

そんな純粋な好奇心による疑問を真実に則って曖昧に首を横に振りながらも、はっきりとした否定と訂正をしないのは、お互い満更でもないという事実が根本にあるからだ。

しかし、夢に向かって切磋琢磨する教え子たちの手前、ハイそうですねとその噂に肯定の色を滲ませることへの後ろめたさのおかげか否か、絶妙な関係のままこうして名前のないやり取りを繰り返している。

時刻は朝7時半。
登校にはまだまだ早い時間の宝石が丘には、教師の姿さえ少ない。
恐らく2人が一番乗りだろう。

雪玉をぶつけられてから黙り込んだままの荒木を追い越し、名前は白い息を吐きながら笑みを零した。


「ふふ、早く入りましょう。温かいコーヒー淹れます───きゃ!?」


突如ふわりとした浮遊感に苛まれ、真っ先に視界に飛び込んできたのは今し方歩いてきた道のりだった。
慌てて体を捩れば、荒木の後頭部が少しばかり下に見え、その頭越しには一面の白い芝生が広がっている。


「雪の海で溺れてこい」


少し手前に引かれた自身の体に、夏の海に投げ入れられた時の光景がフラッシュバックする。
目線が半分ほど下がり、荒木の腕から離される瞬間、名前の手は咄嗟に荒木のネクタイを掴んでいた。


「お、おまっ───」


結局、してやられたと荒木が溜息を吐く結果となったのは言うまでもない。


「───危ねぇだろうが」
「…先輩が悪いです」
「いやいや始めたのは名前だろ、ふざけんな」


雪に寝転がった名前のすぐ横に肘をつき、結局自身も雪に身を投げることになってしまった荒木が目の前の額を指先で弾く。
パーソナルスペースの内側で痛い!と上がった声に、やられっぱなしで行き場を失していた気持ちが昇華されるのがわかった。

"温かいコーヒー"が、名前にとっての詫びのつもりだったらしい。
が、今のこの状況も悪くない。

そう俯瞰した感情で見下ろした名前の頬が、必要以上に赤く染まっていた。

やはり、お互い満更でもないのが事実のようだ。

呼吸に合わせて零れる白い息を混じらせた後、荒木が名前の手を引いて起き上がらせる。

コートに付いた雪を払い落としながら、こちらを見つめる荒木に笑みを一つ浮かべれば、なんとも形容しがたい朗らかな眼差しが返ってきた。







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