群がっていた人々は次第に大きくスペースを開け、口々に野次を飛ばしている。
そのほとんどは猪王山を応援するものであり、誰一人熊徹を応援する者はいなかった。

手合いの作法に則り深くお辞儀をする猪王山の真正面で、熊徹は一度も腰を折らずに準備運動に勤しむ。
当然、その態度にさえブーイングの嵐は巻き起こった。


「名前!」
「え…―――きゃ!」


熊徹に怒号を飛ばす一郎彦と二郎丸の間に挟まれ居心地の悪さに苛まれていた名前の腕を、誰かが強く引っ張った。
そのまま人混みの間を縫うように疾走し、二人の対決が見やすい場所へと連れてこられていた。

名前の腕を引いたのは九太だったようで、突然のことに目を白黒とさせる名前に対して、九太は食い入るように目の前の対決を凝視している。
時折ブツブツと何かを呟いており、その体も血湧き肉躍るように気もそぞろのようだった。

獣化した熊徹と猪王山の巨体がぶつかり合い、ギャラリーの波を抉りながら押し問答を繰り広げている。
一見、熊徹が押しているように見受けられるが、戦いとは、ひとりで行うものではない。


「猪王山!頑張れ」


その言葉を皮切りに、周囲から猪王山を応援する声援が引っ切りなしに響く。


「お父さん!負けないで!」


名前も負けぬよう声を張り上げるが、応援する数の差があまりにも大きすぎる。
高くか細い声は、熊徹に届くよりも前に人々に飲まれていった。
百秋坊や多々良が傍にいればまた違ったのかもしれないが、この場で熊徹を応援する者は名前以外にいない。

遂に押し負けた熊徹の体が、猪王山によって吹き飛ばされる。
それでも熊徹は諦めんと大太刀を手に取り飛びかかった。
熊徹の大太刀と猪王山の刀がぶつかり合う鈍い音が、地面を伝って体の内側から震えている。

刀を鞘から抜くことは禁じられているため、紐で固定され、鞘に仕舞われたままの刀同士が何度も交わった。

猪王山の攻撃が当たれば歓声が上がり、熊徹の攻撃が当たればブーイングが起こる。


「お父さん!」


何度目かも分からない名前の声も、猪王山コールに消えていった。





「―――負けるな!!」





突如、力強い声が沸き立つ人を割いて熊徹の耳へと飛び込んだ。

観戦をしていた人々も、熊徹を応援する者が名前以外にいることへの困惑の色を示し、ザワザワと辺りを見渡している。


「負けるな!!」


もう一度熊徹に向かって声を上げた人物は、繋いだままの名前の手をギュッと握りしめた。
名前の手を握る九太の手は、興奮と憤怒で震えていた。

熊徹の目が自身を応援する九太の姿を捉え、その口元が喜びで歪んだその刹那。

猪王山の鋭いひと突きが、熊徹の鼻を直撃した。


「そこまで!」
「宗師様!」


宙を舞った熊徹が地に伏せると同時に、熊徹と猪王山の間に突如現れた人物―――宗師の登場にその場は騒然となった。
名前は慌てて頭を下げ、向こうからは見えずとも宗師に敬意を払う。

音もなく現れた宗師は、どこか楽しげに様子を伺っていた。


「何をしておるか?試合には早い。
 わしはまだ何の神になるか決めておらん」
「宗師様、人間を引き入れた熊徹を罰してください」
「ふむ…」


事のあらましを簡潔に伝えた猪王山の言葉に、宗師は顎を撫で下ろしながら熊徹を一瞥する。
宗師の足元には、動くこともままならない熊徹が横たわっていた。


「しかし罰と言っても、こやつはお主が伸してしまったではないか」
「誰が…なんと言おうと…九太は、俺の…弟子だ…!」
「ほほう、覚悟はあるようだな」
「例外を認めるのですか?気の毒だが、熊徹に責任など取れない」
「責任はわしが取る。弟子を取れと焚き付けたのはこのわしじゃからの」


そうだったのか、と名前は一人静かに納得した。
九太と出会ったあの日の夜、多々良からある程度のことは教えてもらってはいたが、まさか宗師本人に突き動かされていたとは知らなかった。

尚も食い下がる猪王山は、自身が最も懸念していることを言葉に乗せる。


「ですが、もし闇を宿したら…」
「なにも人のすべてが闇に飲み込まれるわけでもあるまいぞ」
「しかし…!どうしてそう熊徹に甘いのですか」
「話は終わりじゃ。かいさーん!」


こうして、熊徹と猪王山の対決は幕を閉じた。

名前に支えられながらゆっくりと体を起こした熊徹は、それまで一度も九太の目を見つめることはなかった。

それ故に、九太の胸の内で静かに燃え始めた炎の存在に、熊徹はまだ気付かなかった。







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