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怯えるお前が



 外はもう真っ暗だった。空を見上げれば星や月がくっきりと見え、名無しは余計に辺りを暗く感じる。
 今から帰れば何時に家に着くだろうか。いつもより早く歩けば今予想した時間よりも早く帰れるかもしれない。
 そう心の中で思いながら帰途を急いだ。
 夜の独特の寒さとまではいかないが涼しさが身を襲う。もう少し厚着をすればよかったかもしれないと名無しは思った。
 その涼しさのせいか更に足が速くなる。
 
 そういえば今日はバージルに会っていない。毎日顔を合わせなければ気が済まないというようなタイプではなく、名無しが思っていたよりもストイックだった彼はきっと自分がこんな風に思っているなんて考えもしないだろう。
 会いたいな。名無しは呟いた。好きな男には毎日だって会いたい。しかしそんな想いを伝えればきっと面倒に思うだろう。面倒くさそうに眉間を寄せるバージルを想像し溜息を吐いた。
「会いたいな」
 それでもこみあげてくる感情を我慢できずに声に出せば、なんとなくだが心が軽くなるような温かくなるような気がした。
 まるでこの場の雰囲気が変わったかのように名無しは感じる。
 いや実際に変わったのだ。
 辺りが暗くなったわけでもいきなり寒くなったわけでもない。ただ何かが異質なのだ。
 多少吹いていた風もなくなり物音がしなくなった。まるで自分だけがこの場に取り残されたかのような感覚に恐ろしくなる。
 思わず立ち止まり、この異質感を拭おうと辺りを見回した。耳をそばだたせどんな小さな物音も聞き逃さないように神経を尖らせる。

 コツリ

 その時だった。硬質な何かの音が響き名無しは体を強張らせる。
 その音は真後ろから聞こえ、振り返ろうと顔をわずかに動かすがその途端に警鐘が鳴った。
 振り返ってはいけない。自分の中の本能がそう告げる。
 事実、今感じている異質な空間は後ろに存在しているナニカが関係している。もしくはそもそもの原因かもしれない。
 名無しが息を呑み立ちすくんでいるとその存在が動き始めるたのが空気で伝わってきた。ゆっくりと静かに名無しとの距離を縮めてくる。
 何かの存在が近づいている事がわかり名無しは息を詰めた。

 コツリ
 何かの音が聞こえた。その音の位置からまだ幾ばくか距離があるのが分かる。

 コツリ
 音が響く。どうやら硬質な音は靴の音らしい。
 靴の音という事は人が後ろにいるという事なのだろうが、それにしても悪趣味だ。そして不気味である。
 
 コツリ
 まだ音は遠い。
 知り合いなら真っ先に声を掛けるだろうから後ろにいる人間は面識がない人だろう。だとしたらいきなり立ち止まった自分を不思議に思っているかもしれない。そう思い名無しは体の緊張をほぐし安堵の息を吐くのだが、
 
 コツリ
 だとしたら、こんな風にゆっくりと近づいては来ないだろう。
 その考えに至った瞬間名無しは固まった。ようやくほぐした緊張の糸がピンと張り、五感が今まで以上に鋭くなる。もう靴音は近くに迫っていた。

 コツリ
 足音が止まる。
 何かの存在を背後に感じる。もう真後ろまで迫っているのだ!


 そこから名無しの行動は早かった。恐怖を振り払おうと緊張で硬直していたはずの体が動き出す。
 無意識のうちに名無しはその存在を確かめるべく振り返った。
「……──っ」
 そこには何も無かった。
 たった今まで物音がしていたはずなのにそこは虚無だった。
 今度こそ緊張の糸が切れた。へなりと崩れそうになるのを堪える。
 聞き間違いだったのならいい。だがあそこまで現実味を帯びているのに、間違いだなんて有り得るのだろうか。
 違う意味で怖くなりながら唇を噛み締める。
 じんわりと涙が出てきて今にも泣きそうだ。
 小さく震えながら早く家に帰ろうと踵を返したその時、後ろから体ごと何かに引き寄せられた。
 声にならない叫びが口から洩れる。やはり何かが存在していたのだ!
「……──っ!」
 喉の奥でひきつっていた声が悲鳴に変わろうという時に今度は何者かの手で口を塞がれる。その後に聞こえてきた声は名無しに聞き覚えのある声であった。

「叫ぶな」
 見上げればやや不機嫌そうなバージルの顔が名無しの目に映った。
 もごもごとバージルの手のひらの中で名前を呼ぶ。そしてぺちぺちと押さえている手を叩けば、「叫ばないな?」と念を押され名無しは頷いた。
 ようやく手を外され自由になると、安堵のためか涙が溢れそうになった。
 ピクリとバージルの眉が不機嫌そうに跳ねる。
「なぜ泣く」「……バージルが怖かったせいだよ」
 誰のせいだと思っているんだという気持ちは押し留め、素直に自分の気持ちを伝える。
「バージルこそ、なんか怒ってるの?」
 顔を見た瞬間からこうも不機嫌オーラを出されていれば誰だって気が付く。そもそもバージルは隠そうともしないが。
「……」
「え?」
 いつもはハキハキと話すバージルが珍しいなと思いながら聞き返す。
「お前が怯えるから……、」
 予想外の台詞にきょとんとする。
 自分が怖がり泣いているから機嫌が悪いのだろうか。確かに親しい間柄の相手に怖がられて泣かれたら不機嫌にもなるだろうが。
「声を掛けようと思ったのだが名無しが怯えるから声を掛けられなかった」
 声を掛けられなかった……? まさかあの足音はバージルのものだったのかと名無しは唖然とした。そしてあまりに怖がるので振り返ったときついつい姿を隠してしまったと、そういう事だろうか。バージルのその一言で自分に怖がって欲しくなかったのだという意図まで読み取れた。
「すまない」
 今度は申し訳なさそうに謝られた。先ほどまでの不機嫌さは消えうせ今ではしゅんとしている。
 うわ、かわいい。名無しは思わず心の中で呟いた。まさかこんな表情が見られるなんてと何だか得をした気持ちになる。
「ううん。平気」
 顔を横に振り気にしていないと伝える。
「でも、一人で帰るのが怖くなったから家まで送ってって」
 言いながら手を差し出せばバージルに握り返される。その動作だけで了解の意が読み取れる。ぎゅっと握られ名無しは微笑んだ。
 ゆっくりと歩き出し名無しは辺りを見回した。今度は異様な空気は感じられない。あんなに怖かったのに今ではほわほわと心が浮かんでいるようだ。それにこの男性の隣なら何にも怖くないだろう。守ってくれる。
 ニコニコと笑っている名無しはバージルの一言で驚く事になる。
「会いたかった」
 照れたように告げられ驚いたのだがすぐに名無しは微笑んだ。
 満足げにバージルが鼻を鳴らしたのが聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「よくやるよな」
「うるさい」
 名無しを家まで送った後、今まで二人の様子を見ていたダンテが声を掛ける。
 面倒そうに一言だけ返すと、スタスタと歩いた。そんな兄の対応に慣れているのか特に気にも留めずにダンテは口を開く。
「自分から怖がらせたくせによく言うぜ」
 ダンテの一言に今まで無視を決め込んでいたバージルが口元をつり上げる。
 
 
 そうだ。俺が怯えるように仕向けた。
 異様な雰囲気も足音だって。
 アイツが怯えるように仕組んだのだ。

「俺は好きな女は優しく扱いたいから真似できねえな」

 それはお前の価値観だろう。俺の価値観とは違う。
 優しく扱う事も愛情の一種だろう。だが俺の愛情は違う。
 なにより、

「怯える名無しが、」

 その先は口にしなかった。価値観の相容れない者に語るだけ無駄だと知っていたからだ。だからその続きは自分の中だけで言った。

 それになにより、
 怯えるお前が愛おしい


fin




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