夏独特の蒸し暑さと寝苦しさが相まって目が覚めた。普段ならもう一度眠りにつこうと目を閉じる所だが、今日はそうしなかった。
なんとなく嫌な予感がした。
蒸し暑くて目が覚めたはずなのに寒い。体の芯まで冷え切っていて薄めのシーツを手繰り寄せ身震いをする。
それでも暖かくならなくて名無しは冬に白い息を確かめるように息を吐いた。なんとなくだった。これだけ寒ければもしかしたら息も白くなるかもと下らない想像を掻き立てただけの事だ。
だが現実は想像とは違い名無しの目の前に白い息を作る。思わず瞠目した。
季節は夏でデビルメイクライにはクーラーは付いていない。それなのに真冬の空の下に居るかのようにはっきりとその存在を主張する。
目を見開かせ驚きに声も出せずにいると、
――カリ
何かの音が響いた。
まるで壁を爪で引っ掻いたかのような異様な音に、ビクリと震わせて体を勢いよく起こし、辺りを見回して見るが何もない。じっと目を凝らしたが何も映らなかった。
ただの聞き間違いかな。名無しは小さく安堵の息を吐き再びベッドに横たわり、今度こそ眠りにつこうと寒さも忘れて瞳を閉じた。
――カリッ
やっぱり聞こえた! もう一度身を起こして今度は首を音の正体を確かめようと首を左右に振り部屋全体を見渡す。恐怖から涙が滲み嗚咽を堪えながら音の元凶を探った。
それにしても寒い。季節は夏で昨日までは汗ばみながら眠りについていたというのにどうしてこんなに寒いのだろうか。
両手を胸の前でクロスさせ肩から二の腕をさする。すると寒さが和らいだような気がしたが、所詮はその場しのぎだった。
――カリッ、カリリ
また音が響く。名無しが居るベッドから少し離れた壁からそれは聞こえた。いや、正確に言うなら壁の「中」からだった。
爪で壁を削ろうとするかのような、強い音だった。引っ掻くというような生易しい物ではではなく、壁を削り、壁の中からこちらに出たがるような音だった。
そんな気味の悪い音が響くが名無しは気にならなかった。寒い。凄く寒い。
ゴシゴシと力を入れ腕を擦る。力の入れすぎで痛みを感じたが止めなかった。
――カリカリカリ、カリカリカリ、カリカリカリカリカリカリ、ガリッ!
寒い。本当に寒い。このままでは凍えてしまいそうだ。
壁からの音が変わる。ガリガリと引っ掻く音はもはや引っ掻くというよりも抉ろうとする音だった。
音が大きくなる。さっきまで一本だったのに今度は複数の爪で引っ掻くような音だ。その中でパキリと弾けるような音が聞こえ、名無しは爪が折れたのだと瞬時に悟った。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ、その音に合わせて腕を擦った。擦った部分が異様に熱い。ツンと鉄の臭いが混じる。
あぁ寒い。寒い。寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い痛い痛い痛い痛い痛い、痛い!
一心不乱に擦った。摩擦のせいで痛かった。いつの間にかあの壁で聞こえていた音が、部屋全体で聞こえるようになった。右でも左でも、上からも、下からも!
笑えてくる。こんな状況、愉快で笑えてくる。
――ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ、ギャリリッ!
一際大きな音が聞こえたかと思うと、一斉にに引っ掻く音が止まる。名無しは正面の最初に音が聞こえた壁をぼぅっと見つめていると、ボコリ、壁を削り貫通しその中から白い腕が出てきた。
真っ白な腕は名無しに向かって手を伸ばす。名無しがどこに居るのか分かっているかのような正確さだ。
やはりアレは爪が折れる音だったのか。名無しはどこか他人ごとのように思うが、その指には爪は一枚も無かった。剥がれ落ちたらしい爪がパラリと床に落ち、高い音が部屋中に響いた。
伸ばされた腕はやがて力を抜きしなやかな動作で手招く。ゆっくりゆっくり、何度も。
そして動きを止めたかと思うと壁の中に吸い込まれるように戻っていく。
後にはぽっかりと大きく空いた壁だけが残り、名無しは未だに目を逸らさなかった。じっと穴を覗くように、暗闇に潜む何かを見つけるように、目を凝らしていると、
真っ赤な血走ったかのような大きく見開かれた瞳と目が合った。
「……て、いう夢を見たの」
名無しの台詞と同時に話を聞いていたレディは、大きく息を吐き強張った頬を緩ませた。
「なによもう。本当にビックリしちゃったじゃないの」
「でしょ?」
「それにしてもよくできた話ね。ねぇ、ダンテ?」
「あぁ」
ダンテのツケを清算しようとレディはデビルメイクライに訪れた。やつれた表情をする名無しを見たレディがすぐに何があったのか尋ね今に至る。 最初はダンテが何かしたのかと疑ったレディが、弁解するダンテにカリーナ・アンを向けた事はここだけの話だ。
いつもながらよくこんな重たい物を持てるなぁと感心している名無しはしばらく、2人の命懸けのやり取りを眺めていただけで途中からようやく我に返って、今にも撃ち殺しそうなレディを止めたのである。
「この馬鹿が嫌がる名無しに無理やり変な事をしたかと思ったわ」
「おいおい。俺がそんな事するような男に見えるか?」
「えぇ」
おどけるダンテをレディは軽く流すと、ダンテはがっくりとわざとらしく肩をすくめた。
「それにしても、本当に酷い顔よ。悪夢のせいで眠れなかったの?」
「うん。そんな所かな。ダンテにも言われたけどそんなに酷い?」
「あぁ、まるで死人だ。最初見た時は、本当に驚いちまったぜ」
軽い口調で話すダンテが心配そうに名無しの顔を覗き込む。頬を両手で包むと顔色を確かめるように見つめた。
「平気。ただの寝不足だから」
「そうね。本当に悪魔が居たらダンテが気づかない訳はないし。私はそろそろ帰るから名無しはもう一回寝ときなさいよ」
「うん。ダンテが傍にいてくれるから平気だよ。……それにダンテだったら、ちょっと強引でも許せるしね」
軽く笑いながら言うと、レディはもちろん当の本人であるダンテも驚いたように目を瞬かせる。
「へぇ」
名無しの言葉の意味を砕き理解したダンテがニヤリと含みを持って笑う。するりと名無しの腰にダンテの腕が回ったところで、付き合いきれなくなったレディが呆れたように「じゃあ、失礼するわ」とそれだけ言うと踵を返し出て行ってしまった。
レディの姿が見えなくなったのを確認するとダンテが名無しを両腕で抱え上げる。
「さてBabyちゃんはもう一回お休みの時間だ。寂しかったら、色男が添い寝してやるけどどうする?」
「じゃあ頼んじゃおうかな」
「お安いごようだ」
軽々とした足取りで寝室まで歩くダンテの首に、嬉しそうに名無しは腕を回す。
名無しの腕には擦った後もなければ、壁に穴も空いていない。
名無しはチラリと自分の腕を確かめて安堵したように、ダンテの胸に体を擦り寄せた。途端にダンテの機嫌がよくなるから現金である。
「あれは夢だったんだよ」
思い込もうとする名無しとは対照的に、ダンテの首に回した両腕は焼け付くように熱かった。
fin
あとがき
夏だったのでホラーテイストにしてみました。
何かに取り憑かれたヒロインと気づかないダンテです。ヒロイン死亡フラグ。
prev / next