怪我の巧妙(上)どうしてこんな時間まで出歩いていたのか。怪我はないのか。何もされていないか。
イオナは何を聞いても答えない。
それもそのハズ。
「あのなぁ、お前。」
「ぐうぅ…、むにゃにゃ、ふぐぅ…」
「聞いてねぇよな、寝てんだし。」
背中に優しい重みを感じながら、ゾロは一人ごちる。
押し付けられた双方の膨らみにドキドキしたのも最初のうち。肩に涎まで垂らされれば、「このバカ女」としか思えなくなった。
最初は何を訊ねても、あえて沈黙を貫いているようだった。
言いたいのに言えないの、ごめんなさい。とでも言うかのように、首をブンブンと左右に振るのだ。
そんな態度を取るくらいなら、サラッと言ってしまえばいいのに。ゾロはそう思ったけれど、無理矢理聞き出す気にもならず、夜道をただ歩き回り─
結果的には迷子となった。
本来ならば20分もあれば帰れる距離だと言うのに、1時間程度さ迷い続けている。
歩くのに夢中で話しかけるのを忘れていたばっかりに─彼女は疲労の蓄積と、睡魔の誘惑に耐えきれなかったのだろう─気がついた時には耳にかかる呼吸の音が深くなり、イビキへと変化していたという次第である。
「よくもまぁ、こんな酷ぇ街を…」
ゾロは昼の街の様子を知らないため、常日頃からこの街の治安がクソであると思い込んでいる。
イオナは「昼間は温厚な市民たちだったから、きっとゾンビにされたんだと思う。血液感染したんだよ。」などと真面目に語っていたのだが、「それは混乱からくる勘違いだろう」と考え、初期設定ごと切り捨てていた。
彼女がナミとの約束の話をしていればゾロも信じたかもしれないが、イオナがその話を"とある勘違い"から絶対に口にしなかったがために、話がそこそこややこしくなっている。
そんなこんなで、ゾロは余計にイオナを"とことん変な奴だ"と思ってしまったし、同時に"やっぱり放っておけない"とも感じていた。
「ナミの奴もちゃんと見張っとけよ。」
眠っているからか、背後から感じる体温が異常に熱い。もちろん、首筋を掠める息も熱い。
脱力しているためにずり落ちそうになってきた彼女の身体を、一度ヒョイっと屈伸して担ぎ直す。彼女の身体は跳ねるようにして持ち上がり、再びゾロの背中へと収まった。
「んぐっ。うふふ…。」
その揺さぶりに合わせて耳元で紡がれるのは、まったくもって色気のない寝言。そんな無防備すぎるイオナの様子を、かわいいとすら思ってしまう。
放っておけないタイプ。
彼女は天性のそれなのだろう。
地雷を踏んでいるような気がするが、踏んだままでいれば起爆しないタイプのものならば問題ない。
それはなんの根拠もない自己解決。それでも今のゾロにはそれで充分だった。
考え事をしているせいなのか、どれだけ足を進めても、同じところをグルグルするばかり。
「誰が道案内できる奴はいねぇのかよ。」
そんな不満が浮浪者や薬物中毒者になど聞こえるはずもなく、彼は見ず知らずの街で方向音痴の才能を惜しみなく発揮し続けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
すでに日は昇り始め、辺りが明るくなってきた頃にやっとサニー号へと戻ってこれた二人。
その愛くるしい船首をみかけたときの、ホッとした感ははんぱないものだった。
ゾロは思わず眠っているはずの背中の住人に声をかける。
「なんとか帰ってこれたな。」
「んー。ヘックシュンッ。」
「おい、大丈夫か?」
「フニャ〜。」
どうやら、タイミングよくくしゃみをしただけで、彼女はまだ眠っているらしい。
背後の温もりはもごもごと身じろぎするのみで、それ以上の反応はなかった。
「呑気な奴だな、ほんと…」
無意識に緩んでしまう表情をそのままに、ヒョイっと屈伸し、脱力しきっている身体を担ぎ直す。
彼女はその振動でも起きる様子はない。
まぁ、このタイミングで目を覚まされて、いつもの勘違いで悲鳴をあげられるよりはマシである。
ゾロはあまり大きく揺らさぬように気を使いながら船室へと入り、ダイニングのドアを開けた。日光はまだ部屋を照らすほど指し込んではおらず、室内はまだ薄暗い。
「電気付けたら起きるよな…。」
はっきりとしない視界の中で慎重に足を運び、なんとかたどり着いたソファの上にイオナを転がす。
顔を覗き込むとムニャムニャと口を動かして、心地よさげな表情を浮かべている。だらしなく投げ出された四肢と、薄暗い空間に浮かび上がるボディライン。
隙だらけのその表情と姿に、不覚にもドキリとしてしまい─慌ててそこにあった膝掛けをかけてやった。
「風呂でも入るか。」
眠っているクルー相手に欲情するなんてどうかしている。
どうやらまだ、理性の方が勝っているらしい。煩悩ごと汗をシャワーで洗い流そうと考え、ゾロは浴室へと向かい─
「おいおい、待てよ。」
そして、絶句する。
脱衣所にある上半身が映るサイズの鏡。
今までそれの必要性をまったく感じなかった彼だけれど、この日ばかりは感謝した。
鏡に映る自分の右肩。
そこにはベットリと黒い血が染み付いており─イオナが怪我をしていると教えてくれたのだから。
涎じゃなかったのかよ…
肩に感じる湿り気を涎だと信じて疑わなかったが、冷静に考えればわかるはずだ。
肩がグッショリと濡れるほどの涎を、あの短時間で垂れ流せる訳がないと。
あぁ、呑気なのは自分の方だった。
怪我があるならそう言えよ…。
ってか、なんで黙ってやがった…。
その時の彼女の本心など考えてもわかるハズもなく─それに気がついたゾロはすぐさま脱ぎかけた着流しの帯を閉め直し、イオナの元へと駆け戻った。
prev |
next