照れ隠しビンタ食事を終えたクルーたちの団らんのとき。
突然、バタンッと大きな音が響いた。
それが叩きつけられたドアの音だと気がついた時、食後の紅茶を楽しんでいたナミは音の方へと目を向け、呆れたように声を漏らす。
「いったいなんなのよ、アイツは。」と。
それに合わせて、たばこをふかしつつガスコンロの掃除をするサンジの隣で、黙々と食器を洗っていたイオナは肩をすくめた。
サンジはそんな彼女を気にかけるけれど、ナミのいる場所からはなにも見えておらず、言いたい放題だ。
「毎日、毎日どんだけ不機嫌なのよ。ほんっと訳わかんない。脳ミソが筋肉痛にでもなってんじゃない?」
あまりの揶揄に思わず笑ってしまいそうになるサンジだが、隣でイオナがさらに肩を落としたのをみて「まぁまぁ」とナミを宥める。
「文句があるなら言えばいいじゃない。どうして態度に出すのよ。うっとおしい。」
「口に出せないから態度に出すしかないんだろ。アイツらしいじゃないか。」
いつの間にか、言葉通りの瞬く間に、サンジは紅茶のお代わりを持って、ナミの隣に移動していた。
柔らかい調子で苛立つナミの意見を肯定しつつ、さりげなくフォローもいれる。それは決して『ドアを叩きつけたアイツ』のためではなく、気を落とすイオナのためだ。
サンジとしては大好きなナミさんの気分を害した『アイツ』を許せないのだが、『アイツ』がそうした行動をとる理由を知っているらしい、いや、その原因であろうイオナの前で責めるのは気が引けた。
そんなサンジの優しさが逆にイオナを自己嫌悪に引き込んでいたのだが、それはもう仕方のない話。
彼女は押し寄せる後悔を洗い流すかのように、ただひたすら、無心で食器を洗い続けていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ナミが女部屋へと戻った後。
サンジはここでやっとイオナに声をかける。
「何をしでかしたんだい?」と。
彼女が稀に奇怪な行動を取ることを知っていただけに、断定的な問いかけだった。
ずっと落ち込んでいた様子だったイオナは、さらにその身を小さくして、無言のまま伏せた視線をさ迷わせる。どうにも言いにくいことらしい。
そんな姿をも愛しいと言いたげな優しい視線を送り続けるサンジは、タバコの火を揉み消し嫌みのない溜め息をついた。
そして、イオナの方に手を伸ばす。
その大きな手のひらが彼女の頭に触れた時、小さな身体がびくりと震えた。安心させるようにポンポンと撫でると、イオナはぎこちなく微笑んだ。
まるで泣いている小さな子供をあやすみたいに、サンジは優しく問いかける。
「喧嘩した?それとも…」
言葉を濁しつつ、その瞳を覗き込む。
彼女は目をうるうるとさせるだけで、否定も肯定もしない。
サンジはまいったな。と苦笑を浮かべるが、イオナはただ口にしないだけで、思っていた。
「喧嘩以外になにがあるのか。」と。
▽▽▽▽
数日前。
気づかないうちに恋してしまったのだから、仕方ないではないか。
甲板に寝転がり昼寝をするゾロのすぐそばに陣取って、なにも書かれていないノートをイオナは開いた。
そんな彼女の手元には羽根ペンがあり、衣服についても洗剤で落ちるという最新のインクが足元に置かれている。
以前言葉を操る仕事をしていたイオナは、一つの習慣として、冒険の中で起こった出来事や思い出をノートに記していた。
けれど、今の彼女にはそれをする余裕はどこにもない。
なぜならその視線は開かれたノートでも、手元の筆ペンでもなく、芝生の上に仰向けで寝転がり、大口を開けてイビキをかいている未来の大剣豪へと向けられているのだから。
なにをやっても手につかない。集中できない。
頭の中はお花畑で鮮やかなピンク色。
いわゆる、恋煩いというヤツだ。
「カッコいいよなあ。」
熱っぽく呟かれた独り言は、ルフィやチョッパーの笑い声によって良い具合に掻き消される。
それでよかった。
気持ちを押し殺すわけでもなく、「この想いはどうすることもできないものなんだ。」と開き直った彼女は、心の中でその想いを膨張させる。
いつのまにか目で追っていて、胸が高鳴っていた。
それが恋だと気づいた時にはもう気をそらすことなど出来ないほどに、ゾロに夢中で恋をしていた。
別に同じ気持ちになって欲しいなんて欲張ったりしないし、体温を知りたいなんてふしだらなことも考えていない。
毎日、ほんの少しだけ『観察』できればいい。
それだけで充分なほどに満足出来る。
だからどれだけ気持ちが膨れあがろうとも彼には伝えないし、他の誰かの前で想いを口にしたりはしない。
それがけじめだと考えていた。
いや、実際にはそう思っていたのだけど─
あまりにも夢中で観察しすぎていたせいか、それともクルーたちのはしゃぐ声がうるさかったせいか、そのイビキが止んでいることにイオナは気がつくことができなかった。
「めっちゃ視線感じんだけど…」
眠っているはずのゾロからボソリと囁かれた言葉は、低く彼女の鼓膜をくすぐる。
ゾ、ゾロに気づかれた!
そう悟るまでに2秒かかった。
そして理解した途端に、額や背中から冷や汗が溢れ出し、全身を駆け巡る血液は沸騰する。いきなり体温が上昇しすぎたせいで、今が暑いのか寒いのかすらわからなくなっていた。
「えっと、あの…「別にかまわねぇけどよ…」
謝ろうと口を開いたイオナの意味のない声に、ゾロが言葉を被せる。
そのクセに中途半端に言葉を切り上げるものだから、彼女は困惑する。
(構わないけど…って、「けど」ってなに!?)と。
イオナが頭を抱えて悩んでいる隙に、ゾロはひょいと上体を起こし、それに気がつかなかった彼女が顔をあげ、二人の視線が不意に重なる。
結果、イオナはパニックに陥った。
なにせ大好きな人と(奇跡的にではあるが)視線を交わしてしまったのだから。
「ほほほんとに、みてっ、ても、い、いいの?」
思わず口からでた言葉。脳で考える前に動いた口を慌てて手で覆うも意味はない。
そんなアホ丸出しのイオナを目を細めてまじまじと眺めたゾロは、全く意味がわからないと言った様子で首をかしげ「みててなんになんだよ。」と呟いた。
その口調は、呆れているようでもあり、困っているようでもある。なにより、眉間のシワがいつもより数段濃かった。
そんな彼の仕草や口調にすらときめいてしまうのだから、重症なのだろう。イオナの脳内は沸騰しきっており、パンク寸前で、言葉を選ぶ能力は皆無。
興奮に動揺や緊張も加わり「か、観察してるの!」と、強気な口調で主張してしまった。
途端に、彼の表情は険しくなる。その上、少し俯いて困ったように乱暴に頭を掻き始めた。
そんな仕草を見て、イオナは焦った。
あぁ、きもいヤツだと思われてしまった。
どうやら自身の行為について、それがまともなことでないという認識はあったようだ。
先ほどまでは煮詰まるほどに煮えたぎっていたはずの血液が、瞬時に沈静化される。それどころか、胸の火照りは冷め、まるてドライアイスにでも触れたかのような気分だった。
「観察って。イオナ、お前な…」
「も、もういいから!そんな、そんな、私みたいなヤツのこと、気にしなくていいからっ」
大好きなゾロにキモいと思われたかもしれない。
いや、確実に思われだろう。
呆れたように話し始めた彼の声を遮り、泣いてしまいそうになりながらイオナは立ち上がる。
その拍子にインクの瓶が溢れ、お気に入りのシューズに染みがつく。でも、そんなことはどうでもよかった。
とりあえず彼から離れなくては。
それしか考えられない。
結局そのまま走りだそうとしたものだから、インクの瓶を盛大に蹴飛ばしてしまう。芝生は黒く染まり、靴下にまで被害は拡大。
それでも、ゾロになにか言われる前に立ち去りたいイオナ必死で足を踏み出した。
「おい、ちょっと待てよ。」
呼び止める声に、彼女の脳を圧迫していた緊張がさらに大きくなる。
どうしよう。どうしよう。逃げないと。どうしよう…
激しい動揺の中で踏み出した足は無意味にもつれ、無理矢理に体勢を整えようとした結果、転がっていた瓶を踏みつけてしまった。
まるでコントのような間抜けすぎる一連の流れ。
そのまま大袈裟にイオナの身体は前方に吹き飛んだ。
「ギャッ!」
可愛いげのない悲鳴と同時に響いた、勢い良く芝生を踏みつける音。
顔面を芝生に打ち付ける形で転倒するだろうと思っていたイオナの身体は、地面にぶつかることなく静止する。
「え…?あ、うそ…」
一瞬何が起こったのわからず目をしばたたかせると、眼前に迫った緑が風に揺れていた。
「身体が、浮いてる…?」
そう呟いた彼女の腰には、ほどよい力加減で筋肉質が腕が回されている。
転びそうになった自分の身体を、ゾロが瞬時に駆け寄って受け止めてくれた。
この状況を音速で理解したイオナ。
彼女は「大丈夫か?」と声をかけてくれた想い人の言葉に耳を貸すことなく、先程よりも大袈裟な長い悲鳴をあげ──瞬時に地に足をつけると、一歩分の距離を取り、くるりと身体を半回転。助けてくれたゾロの方へと向き直り、
パチンッ
平手打ちをぶちかました。
逃げようとしていたのに捕まったから。
照れ臭かったから。
突然抱き締められる形となってしまったから。
その熱すぎる体温を知ってしまったから。
理由はいくらでもあるのに、イオナにはそれを伝える術がない。
彼女が咄嗟に出来たのは平手打ちと逃げ去るだけだった。
まるで状況が飲み込めず、ゾロは目を丸くしてもみじマークのついた頬を撫でる。その時すでに彼女は立ち去っており、ビンタの音に驚いたクルーたちの視線を一身に浴びていた。
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