キスしたかった…。
そう思うのは、欲求不満だからだろうか。それとも自信がないからだろうか。
その両方であり、そうじゃない。
イオナはそう自問自答した。
あの瞬間、キスされて当たり前だと思っていた。触れられることが当然だと思っていたから、キスをしてもらえると…
「バカじゃん、私…」
たった一度、焦らされたくらいで泣きたいくらい不安になるのは自信がないから。
焦らされたと思うのはその先があると思い込んでいるから。
素っ気ない態度も受け入れてくれた。指輪をくれた。嫉妬してくれた。大好きだと何度も囁いてくれた。
「してもらってばっかりじゃん…」
もらってばかりなのに、いざ渡す側となるとなにもできない。プレゼントしようと思っても、難しく考えてしまって前に進めない。
自分はどうしてこんなに不器用なんだろうか。上手くやれないんだろうか。
恋愛達者になれれば─
そこまで考えたところで思い出すのはゾロの言葉。
『不器用なところが好きなんだよ』
どうしてあんな風に言い切れるのか。自信を持っていられるのか。
羨ましい。妬ましい。
それでいて魅力的で格好いい。
真面目に考えていたはずなのに、気がつけば頭の中でのろけてしまっていたことに気がつき、恥ずかしくなってくる。
照れくささを誤魔化すように乱暴に頭を掻くけれど、当然ながらそこに誰がいるわけでもなく、心の声が聞こえているわけもなく。
「なにやってんだろ…、私。」
ゾロに触れられるまではずっと気持ちが落ち込んでいたのに、今では少しだけ浮かれている。
嫌われるのではないかという不安が、バレンタインデーが迫ることに対するプレッシャーが消えた訳じゃない。
それでもゾロの声を聞いて、ゾロの優しさに触れたことで、ずっと気持ちは楽になっていた。ずっと心が軽くなっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そして、バレンタインデー当日。
イオナは甲板でうなだれていた。
「どうしよう…」
ここ数日、ずっと悩みに悩み抜いた。
バレンタインデーを無干渉に終わらそうだなんて考えず、何をすればいいか。どうすればいいかと考えていた。
それでも答えは見つけられず、その日がやってきてしまって─。
イオナは項垂れている。
ナミとロビンがおいしいケーキと紅茶に声を弾ませているリビングから抜け出してから小一時間、甲板の柵にもたれ潮風を浴びつつ自分のダメさ加減を噛み締めていたのだが。
「なぁ、そろそろ考えはまとまったか?」
突然背後から声をかけられ、イオナは「ひぇっ」と小さく悲鳴をあげる。
全く気配を感じなかったのは、物思いに耽りすぎていたせいだろか。
ゾロは「なんだその反応。」とからかうように笑いながら、彼女の隣に並んだ。
「急に、話しかけないでよ…」
「話しかける前に、今から話しかけるぞ。って声かけろってのか?」
「それ意味ないから。」
会話の最中、ゾロは何気ない仕草でイオナの髪に触れる。顔を隠すように前に流れていた横髪を、耳へとかけた。
「ここんとこなんか悩んでっから、声かけにくかったんだよ。」
「悩んでなんて…」
「悩んでんだろ。小難しい顔して何をそんなに考えなきゃなんねぇんだよ。」
親身になるフリをしながらも、ゾロはなんだか楽しそうだった。
口ごもるイオナの顔を覗き込んで、ニカッと笑う。話してみろよ。と言うが、悩みを相談するような雰囲気ではない。
もとより、「バレンタインデーなのに、ゾロになにをしたらいいのかわからなくて」などとは言えないのだが。
返答に困ったイオナは、ゾロから目を離し水平線の先を見つめる。船の揺れが心地よく、ゆりかごのようだった。
彼女が小さく溜め息をつくと、ゾロはすでに近い距離を更に詰めた。
「欲求不満ならここで満たしてやろうか?」
「な、なにいってんの?」
つい後ずさってしまうのは、なにもゾロを遠ざけたいからではない。普通に驚き過ぎたのだ。
「ったく、冗談に決まってんだろ。」
「ば、ばかじゃないの…」
「でも、ちょっといいかもって思ったろ?」
「そ、そんなこと!!!」
指の先で鼻の頭をツンツンされ、つい声を荒げてしまう。
あいかわらずヘラヘラしているゾロに、ムッとした視線を向けるけれど、何故か上機嫌の彼は全くもって気にしていない様子。
また自分だけが必死になっている気がして、腹が立ってきた。
「もう知らない。」
あからさまにフイッと顔を背けて、また水平線に目を向ける。
その場に留まるというのは、完全に構ってくれと言っているようなもの。それがわかっているのに立ち去れないのは、 つまり、そういうこと。
彼女の期待通り、あからさまにツンケンするイオナの方へ、ゾロが手を伸ばす。
彼が触れたのは頭でも、頬でもなく、耳。
なにをするつもりなのだろうかと、彼に視線を向けようとした刹那─
「痛ッ!!!」
耳たぶに針で刺されるような痛みが走り、イオナは思いっきり顔をしかめる。
疼く痛みがジンジンと広がっていく。
ゾロの手が耳から離れたとき、彼の指先に血がついているのが見え驚いた。
「いったい、なにしたの?」
熱を持つ耳たぶに触れようとすると、ゾロの手によって阻まれる。彼はそのまま身を屈め、イオナの肩へと顔を寄せた。
耳元にかかる息遣い。
強い痛みを感じていてもゾロのそれには、反応してしまう。肌が粟立つ感覚に鼓動を速めるイオナの耳たぶに彼は舌を這わせた。
おもわず息を詰めてしまう。
身体の芯に灯った熱が、血管を伝って四肢の先にまで流れてゆく。
「ちょっと、ゾロ…」
耳に息をかけられ、耳たぶを舐められただけ。たったそれだけなのに、腰が抜けてしまいそうだった。
「すげぇ、かわいい。」
「なにが…」
そこまで口にして気がついた。耳たぶに刺すものなんて決まっているじゃないか。
ハッとするイオナをみて、ゾロはいたずらっ子みたいな笑顔を浮かべて指についた血を舐めとった。
「汚いよ、血なんて。」
「そうか?」
「そうだよ。」
向けられた視線が照れ臭く、俯いて顔を隠す。頬から感じる熱から、そこが火照って仕方ないことを教えられる。
「なんで、急にピアスなんか─」
「今日、バレンタインってヤツだろ。だから、なんか渡そうと思っててな…」
まるでそれが当然のことのように、彼は言う。
そんなゾロをみてしまうと、なにも準備できなかった自分が情けなく思えた。
嬉しくてたまらないはずなのに、笑顔でお礼を言わないといけない場面なのに、込み上げてくるのは悔しさで、瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
「泣いて、ごめん…。」
不甲斐ない自分が許せなくて、どんどんどんどん感情が押し寄せた。
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