その日の夜。
夕食の後片付けを手伝っていたイオナ。当然ながら、彼女のまとうオーラはどんよりしており、元気がないのは一目瞭然だ。
そんな彼女をサンジが放っておくはずもなく、少しでも元気付けようと声をかける。
「イオナちゃんはバレンタイン、どうするの?」
「どうする、って?」
「ナミすわぁんからチョコケーキを焼いて欲しいって言われたんだ。ロビンちゃんには、甘いものにあう紅茶を頼まれてる。イオナちゃんは、なにがいい?」
一瞬、ゾロとのことを悟られているのかと緊張を覚えたイオナだったが、続けられた台詞によりそれが杞憂であったことに安堵する。
「あぁー。私はいいよ。」
「遠慮しないで。」
遠慮なんてしていない。
そう言いたいが言えなかった。
サンジから物を貰ったとなれば、ゾロは嫌な顔をするだろう。嫉妬でまた乱暴に…
大晦日にシャワーを浴びせられたことを思い出し、頬に熱を持つ。
それを悟られないように彼から距離をとり、背を向ける。突然のイオナの行動に、違和感を感じたサンジが彼女に歩みより顔を覗き込んだその時。
「おい…」
二人の背後から放たれた、怒気の籠る低い声。イオナは身をびくりと振るわせた後、反射的に振り向く。
その時、事件は起こった。
「んっ!!!」
ゾロの声にサンジは反応を見せなかった。というより、イオナの反応が速すぎたのだ。
彼女の顔を覗き込んでいたサンジの唇に、振り返ったイオナの唇が偶然重なってしまった。
その一瞬は、やけにゆっくりに感じた。
慌てて一歩後退り、身体ごと彼を遠ざける。「ごめんなさい。」と小さく呟いたのは、反射的だった。
気にしないでと言いつつ面食らった様子のサンジと、その背後で苛立ちを募らせるゾロ。
泣きたい気分だった。
「私、もう寝るね…」
ちゃんと弁解しないといけないとわかっているのに、それができない。サンジの横を通り抜け、ゾロの正面に立つ。
おやすみと告げて立ち去ろうとしたとき、腕を掴まれてしまった。
「待てよ。」
怒っているのがわかる。
振り返ることも出来ず、ただその場で立ち尽くす彼女をゾロは強引に腕を引き寄せ振り向かせた。
「あ、あの…」
なんて言おう。なんて言えばいいんだろう。どうすれば…
イオナは彼を直視出来ず、俯いたまま言葉を探す。打算を働きたいわけじゃない。もともと事故なのだから、後ろめたさを覚える必要もない。
それでも言葉を選びきれず、口ごもるだけのイオナに向けて、ゾロは言う。
「ちゃんと拭いとけよ。バカが移るぞ。」
予想外の言葉に驚き、顔をあげた彼女のに向かって、ゾロはわずかに口角をあげてみせた。
確かに彼は怒っている。
けれど、その対象は自分ではない。
すぐにそれを理解したイオナは、どんな顔をしていいのかわからなかった。
この状況に安堵すればいいのか。あれは事故だからサンジは悪くないと言うべきなのか。ごめんなさいと真摯に謝るべきなのか。
ひとつ解決すれば、またひとつ考えることが増える。
ゾロは、考えることに夢中で再び視線を伏せてしまったイオナの顎に触れ持ち上げた。
まるでなにも考えるなとでも言うように。
無理矢理合わされた視線。
身体中に熱が流れ、鼓動が早くなる。
ほんの数秒間のことなのに、込み上げる感情で胸が埋め尽くされて──
「拭けって言われたんだから、すぐに拭けよ。」
惚けた顔で硬直するイオナの唇を、彼は首から下げていたタオルで拭う。
一瞬、なにをされているのか分からず呆然としてしまったのは、ゾロがやったことと、されるであろうと思っていたことが違っていたから。
「あんま見惚れんなよ。照れるだろ。」
「み、見惚れてなんか!!!」
イオナの頬に一気に赤みが差す。それを笑うゾロの目からはすでに怒りは消えていた。
「とっとと寝ろよ。夜更かしは太るぞ。」
「うるさい!」
「可愛げがねぇなぁ。」
「ほっといてよ。」
「放っといたら…「おい、クソマリモ。」
なんだかんだで存在すらも忘れられていたサンジが口を挟んだところで、二人の口論は打ち切られる。
「てめぇ、バカが移るったぁ、どういうことだ?俺のどこが…」
「全部に決まってんだろ、バカが。」
「バカって言うな!クソ野郎!」
今度は男二人で口論を始めてしまい、イオナは蚊帳の外。それでもこれ幸いと彼女はリビングから逃げ出した。
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