それから十数分後。
再び事件は起こった。
ドンッ
「痛ッ」「いってぇな…」
鈍い衝突音と重なるように、男女の声が暗い廊下に響く。
そして、
「「なっ…」」
互いに相手の声を聞いた途端に、間抜けな声をあげながら距離をとった。
長湯のせいで逆上せ気味だったイオナは火照りを静める目的で甲板に出ようとしており、甲板で長らく寝転がっていたゾロは睡魔に襲われヨロヨロと寝室に向かおうとしていたところ。
まさかこの時間に、この場で、偶然ぶつかるとは互いに思っていなかった。
どちらも、抜き足、差し足、忍び足だったのが裏目に出たらしい。迫る足音になど気がつきもしなかった。
先に口を開いたのはイオナ。
「こんばんは…。」
「お、おう。」
薄い闇の中でぎこちなくなるやりとり。彼女から漂う鼻孔をくすぐる石鹸の香りに、ゾロは顔をしかめた。
その匂いが不快いだったという訳ではなく、ここで気の抜けた顔でもすればまた平手打ちをされるのではないかという警戒心からあえて神経質な表情を作ったのだけど…
そんな彼の気持ちもつゆ知らず、イオナは先ほど一瞬だけ触れた夜風で冷たくなっていたゾロの体温をおかずに鼓動を速めている。
一秒が何分にも何十分にも感じられるこの空間を、対峙した二人は別々の思いを抱いていた。
とっとと「おやすみ。」と口にして寝室に行けばいい。それがわかっているのに、どうしてかそうすることができないのだからタチが悪い。
「こんな時間に…、なにしてたの?」
まるで詮索するかのような自分の発言に、イオナはムッとした。せめてもっと軽い口調で言えばいいのに。
どうしていつもこの人の前では…
心の内でイオナは自分を責める。
ビンタから始まり、ゾロには失礼な態度しか取っていないことは充分自負していたらしい。
何とも言えない表情で立ち竦む彼女とはなるべく視線を合わせぬように、しかし、警戒心を強めながらゾロは「別に…」と短く答えた。
風呂あがりの姿をジロジロみて、平手打ちされる可能性を予測したのだ。
「そっか。」
少し残念そうなイオナの声に、もっとちゃんと答えた方がよかったのだろうかと考える。
そしてこちらに向かっていたはずの彼女は、なぜか回れ右して背を向けた。
「じゃ、じゃあ!おやすみ!」
シーンとした廊下に響き渡る動揺の滲む声。
よくわからない彼女の行動と上擦った声色が、何故か警戒心を強めていたゾロの笑いのツボを刺激し、緊張が途切れる。その勢いで、つい吹き出してしまった。
「プッ、イオナ、お前…」
言葉を詰まらせながら笑いを堪えるが、込み上げてくるものは仕方ない。彼は我慢するのをやめ、普通に笑い出した。
変なヤツだな…、ほんと。
ゾロがイオナに感じていたのは、意味がわからないものに対する不信感が強かった。
でもこの時、彼が彼女に対して感じていたのは、小動物を見たときに誰もが覚える「愛しさ」。
愛くるしい。可愛らしい。と、ずっと愛でていたくなるあの感情だ。
ゾロ自身は笑うことに夢中でそれに気がついていないようだが、感情というのは大概無意識に溢れているもの。
胸にほっこり感を覚えていれば充分だった。
そんなこととは露知らず、イオナはわけがわからず焦る。ばかにされたのか。はたまたからかわれているのか。どちらにしろ、聞かなくてはならない。
「な、なによッ!?」
彼女は一度背を向けた相手に向き直る。
それがまた失敗だった。
「いや、なんか…、なんなんだよっ、お前って、ほんと…」
イオナのリアクションの全てがゾロの笑いのツボをがっつり押してしまう。下げた眉尻も、プクッと膨らんだ頬も、ギュッと握られている拳も。
薄暗くて見えないが、きっと顔は真っ赤に染まっているだろう。
その全てが愛くるしくして、可笑しくて、おもしろい。
「だからなんなの!?」
「いや、だからっ、イオナ、お前…」
「な、なんなのよ!」
答えを渋られるから意地になる。
意地になっているから笑ってしまう。
そんな無限ルームとも思える状況下で、腹を抱えて笑うゾロを前にしたイオナの胸は高鳴っていた。
好きな人からもらえるものなら、たとえそれが「からかい」や「いじり」でもうれしいらしい。
その上、薄暗い中とはいえ笑顔のゾロが傍にいる。笑い声をたくさん聞くことができる。おまけに、名前を呼ばれていて…
この状況に、彼女が興奮を覚えない訳がなかった。血液が沸き立ち、呼吸が浅くなる。感情が昂って泣いてしまいそうだった。
「いやあ、あれだな、ほんとっ」
「だから、なんなの…?」
どのくらいそんなやりとりをしているのかわからない。バカみたいに同じような会話を繰り返すだけ。
「ゾロ、ねぇ、ちょっと…」
少しだけ声を高くしたイオナ。彼女の声につられてゾロは顔をあげ、二人の視線が噛み合った。
いつもよりも柔らかいゾロの表情に、彼女の全身からは真夏のアスファルトのように熱が噴き出す。
目眩を覚える程の照れ、興奮、緊張、ときめき…。
彼女の脳はアドレナリンの放出量を抑えた方がいい。
あまりの高揚感で全身が脈を打つ。
さらに呼吸が浅くなり、酸欠になりそうで。
そんな彼女に留めを刺したのはもちろんゾロだった。
「お前、わりとかわいいな。」
別に口説くような口ぶりでもない。普通に、単なる感想の一つとして彼はそう口にした。
ところが。
ヒューッ!!!
彼女がヤカンならそんな音が溢れただろう。
しかし、イオナはまぎれもなく『普通の人間』である。
笛の音の代わりに紡ぎ出されたのは、深夜には大きすぎる、昼間でも目立ち過ぎるであろう「ギャーッ」という悲鳴と…
バッチーン!!!
それにコンマ一秒後れた、肌を強く叩く音。
本人も気づかないうちにイオナの右手は、まるでそのためにあるかのようにスムーズな動きで彼の頬に吸い込まれていた。
「いってぇー!なにすんだ!」
「え?あ…、わっ、私…」
後ずさり。からの全力疾走。
腕を掴もうとしたゾロの手を強く振り払い、再び踵を返し走り出す。
「ちょっと待てよ…」
「ま、待てないってっば!」
「おい!」
小さくなる背中を視線で追いながら、ジンジンと痛む頬を押さえたゾロは、そのまましばらく放心状態となる。
なんであいつはあぁなのか。
一体何が気に障ったのか。
全くわからない。
「ご、ごめんなさーい!」
角を曲がり、姿がみえなくなってから廊下に響き渡った謝罪の声。
「わけがわかんねぇ…。」
そうひとりごちる彼の口元は、ほんのすこしだけ緩んでいた。
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