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男は鎌を勢いよく振り下ろす。
刃はイオナの耳元を掠め、シュッと風を切る音が彼女の鼓膜にわずかな振動を与えた。
「ヒィッ」
間一髪でかわせたものの、そろそろ限界。
なんの制限のない無造作な動きを見せる相手に、これ以上の逃走は困難だと頭では理解していた。
それでも一つの希望を胸に、彼女は足がもつれ、躓きそうになるのを堪えながら必死で走る。
「サンジくん…、いないのかな?」
ゾロとの追走は、サンジの干渉もあったがため、いつも短時間勝負だった。
そして今回もサンジがこの街にいると信じていたから、『助けに来てくれるハズだ』と考え、最初から全力で走り抜けていたのだ。
それだというのに彼は来ない。
どんなに悲鳴をあげても彼は現れない。
ま、まさか…!?
これだけ危機迫る状況であるというのに、イオナはどこかピントのずれたピンクの妄想を展開し始める。
とうとうあの二人…。そっか、そうだ。なら、仕方ないよ。私なんかより、最優先はナミだもんね!
それはもちろん"とんだ勘違い"である訳だが、イオナは自分の予測と言う名の妄想を信じて疑わない。
ここで私になにかあれば、ナミもサンジくんも責任感じちゃうよね。
そうだっ。こんなときこそ戦わないと!
もうこれ以上は走れないのだから、自分には戦うしかない。
彼女はある種の勘違いから勇気を得て、ゾンビ男との戦いを決意する。
「う、う、受けて立とうじゃない!?」
民家に立て掛けてあったモップを手に取ったイオナは立ち止まり、鎌ゾンビに立ち向かう。
敵はゾンビ、そう、ゾンビなんだ。
実際は今を生ける薬物中毒者なのだが、少なくとも彼女からみれば生きている人間とは思えなかった。
鎌を振り上げよたよたと歩みよってくる姿を、ジッと睨み付ける。
もし間違って殺しても、相手がゾンビじゃ…、犯罪にはならないよね!?
ってか、血でるの?
ゾンビの返り血とか浴びたくないっ!
まるで自分に言い聞かすかのように、海賊らしからぬ発言を心中で繰り返しながら、イオナは堅く瞼を閉ざし、モップの先端を豪快に振り下ろした。
ボコッ
確かに感じる手応え。
モップがわずかにしなる反動そのものが、全身にその感触を巡らせる錯覚を送り込む。
「ううわぁ、きっしょいっ!」
耐えられなかった。
その手応えは生々しく不気味で、なにより敵が漏らした苦痛の呻きが気色悪かった。
イオナはそれから逃れるために、とっさにモップから手を離し─同時に後悔する。
あぁ、まずいっ!
彼女はここでやっと瞼を持ち上げた。
敵は腕を頭上に掲げており、どうやらその腕を犠牲に攻撃を受け止めたらしい。
「やっぱりゾンビなんだ…」
普通の人間ならば、腕の痛みで一時的に動きを取れなくなるハズだ。多少動じた様子は見せたものの、再び平然と動き出した様子をみて彼女は確信する。
そんな彼女の胸中など知るよしもなく─鎌ゾンビは頭をかばった腕を力なくブランと垂らし、鎌を持つ方の腕を振りあげた。
カランッ
取り落としたモップが地を跳ねる。
もはや絶望的…ではない。
いける!
何故か沸き上がる根拠のない自信。
しかし、それが彼女の力。
鎌が振り下ろされると同時、イオナは瞬時にしゃがみこみモップを再び手にする。身体を伏せたまま、刃先から逃れるための一歩を踏み出し─
グジャリ。
─無情にも、その鎌は右肩に鋭い痛みを浴びせかけた。
「あっ、痛ぁ…。」
その刃が錆びていたせいか、肉を切り落とされるまでには至らず、柔肌を引き千切るかのようして肩に傷をうむ。
「逃げないと!」
ゾンビって血液感染だっけ?
もしかして、私ゾンビ予備軍??
そんなの嫌なんだけど!?
熱く疼く傷口を押さえつつ、余計なことを考えるイオナ。対するゾンビは、なにやらブツブツと呟きながら再び鎌を振り上げた。
受けて立つ!モップだけど!
しゃがみこんだまま、血の流れる右腕で構えたモップ。傷口を左手で押さえているものの、止血するには及ばない。
鎌ゾンビは低い呻き声をあげながら、それまでより力強く鎌を振り降ろし─イオナは硬く瞼を閉じる。
こういうとき、ゾロが助けに来てくれたらラブメロ展開なのにぃいいい〜!
全く緊張感のない心の絶叫。
それが届いたのだろうか。
─刹那。
彼女は左腕を掴まれ、何者かに抱き寄せられた。
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