ゾロ | ナノ


ぽてっ、ぽてっ、ぽてっ…。

眠っていたゾロの頬に、額に、瞼の上に滴り落ちる生暖かい水滴。

さすがにそれに気がつかないほど彼も鈍くはなく、そっと眠りの世界から現実へと呼び戻された。

ぽてっ、ぽてっ、ジュルッ…

ジュルッ…。不確かではあるが、この音には聞き覚えがないことはない。そして身体に感じる重み。

─なにか、いや。誰か居る。

そう判断したゆっくりと瞼を持ち上げ、一瞬で覚醒させられる。

「な、なんでおま、お前が…、って、ちょっと待て!なんで泣いて、お、おい!」

これだけ驚いていながらも、無意識に声を押し殺していたのは、本能的な何かが働いたからなのか。

ゾロ自身にもわからなかったし、彼の上に勝手に座り込み泣いているイオナにもわからなかった。

「ゔぅ…」

ジュルッ

呻き声に鼻をすする音。

イオナがつけたらしい枕元のライト、それに照らし出される彼女の顔は涙でくじゃくじゃだ。


顔を濡らした水滴が涙であったことはすぐに理解できた。が。

「おい、イオナ?」

状況は飲み込めない。こんな時間にここに何をしに来たのかも、彼女が何を考えているのかもゾロにはわからない。

突然ベッドの上に現れ、号泣しながら自分に跨がるクルーにソッと手を伸ばした時。

ゾロは以前の経験を思い出した。

というよりも、正確には本能が知らせてくれたと言った方がいいのかもしれない。

それはまばたきをする隙すらも与えない。

頬に向かって飛んできていた掌をとっさに掴み、身体の上に乗るイオナごと寝返りを打つ。

体勢を崩し、悲鳴をあげそうになった彼女の口をもう一方の手で押さえ、華奢な身体を組み敷くと同時に空いている方の細腕を太股で挟みこんだ。

ここまでが一瞬の出来事。

イオナは尋常ではない速度の動きについていけておらず、目をぱちくりさせるのみで抵抗する意思すら示していない。

そんな彼女を見下ろしながら、ゾロは額に伝う汗を疎ましく感じていた。冷や汗なのか、部屋の蒸し暑さから滲む汗なのか。

例えその汗がどんな意味を持っていようとも、今、この状況で拭うことはできない。

悲鳴をあげられることもビンタをされることもない代わりに、自分も両手が埋まっているのだから。

─ったく、これマジでヤバイだろ。

ビンタされるのはまだいい。ただここで叫ばれでもすれば、昼間のアレと合わせて自分の立場が危うく…

そこまで考えて、再び考える。

─だからなんでイオナがここに?

組み敷いたという状況に気を取られすぎていたらしく、実際ここが自分のベッドで彼女が侵入者であることをゾロはすっかり忘れていた。

何しにここへ来たのか。

つまりそれが重要と…っ!?

ゾロは今の今までソレの存在に気がつかなかった。というよりこんなものが自分のベッドの上にあるわけがない。

イオナの頭の横に無造作に置いてある、雑誌。ほぼ裸の若い女が胸元のみを手で覆い、下半身はギリギリのラインで見切れている。

そしてその雑誌のタイトルは…。

《素人おっぱい女子☆青姦スペシャル》

妙にラフな字体で書かれており、恥ずかしげもなく色鮮やかなおっぱいイラストまでも添えられている。

─で、おっぱい女子ってなんだ?

理解に苦しみ首をかしげたゾロは、この本の真の危険性を、その破壊力を理解する。

「もしかしてだけど、お前、この雑誌みて泣いてたのか?」

雑誌をクイッと顎で指し示しながら訊ねると、彼女はバツが悪そうに視線を横に流した。

ビンゴか。

今日の昼間にあんなことがあったというのに、『青姦』などと銘打ったエロ本がこんなところにあれば、驚くヤツだっているだろう。

驚きと号泣がイコールで繋がるかは謎であるけれど、今はそれどころではない。

「これは俺の買ってきたもんじゃねぇし、だいたい未開封のもんを勝手に開けるなよ…」

ゾロはそう口にしながら恐る恐る手の力を抜いてみると、イオナは抵抗ひとつせず身体をグッタリと寝かしたまま顔を真っ赤に染め上げていた。

「ほら、身体起こせ。間違ってもビンタはすんなよ。あと悲鳴も勘弁してくれ。」

声を潜めながら身体を起こすゾロ。それに合わせてイオナも身体を起こそうとしたその瞬間。

グラッ

船が大きく揺れた。膝立ちだったゾロは体勢を崩し、再びイオナの身体に覆い被さり…

ムニュリ。

バランスをとろうと手をついたところが悪かった。

いつもの就寝前の習慣で、彼女は下着をつけておらず、薄いTシャツの生地一枚を隔ててダイレクトにその感触を大きな掌に伝える。

一瞬なにが起きたのか理解できないで、フリーズしていたゾロだが。

「あぁ、わりぃ!」

慌てふためきサッと身体を起こす。

それに対するイオナの反応はとてもシンプルだった。

胸を鷲掴まれた瞬間は「あっ」と淫靡な色合いの声を漏らすのみで、彼が身体を起こしたタイミングで慌てて両手で胸を覆う程度。

どうやら相当胸を鷲掴まれたことが堪えているらしい。

身をキュッと小さくして座り込み、ゾロの様子をチラリとうかがったりしている。

ここで手を伸ばしでもすれば、平手打ちがお迎えしてくれることが彼には充分に理解できた。

だからあえてなにもしない。

しばらくそのまま向かい合っていたものの、神経を研ぎ澄ましたままでいるのに疲れたイオナは、ヘタッと脚を崩した。

警戒心の薄れたそのタイミングで訊ねる。

「こんな時間に、こんなとこに何しにきたんだよ。」

「えっと、言わないといけないことが…」

ゾロの問いかけにより、ようやく本来の目的を思い出したようで、彼女はポツリポツリと言葉を紡ぐ。

この時、どうやら2度目のビンタ危機は免れたらしいということだけはわかった。

「えっとね、ゾロ…。私は、ビンタしたことについては謝らないことにしたから!」

「は?」

「だって謝る必要はないから!」

「─…。あぁ、そうか。」

まるでなにかを決意したかのような強い口調で言い切るイオナ。それは決意表明なのか、断言なのか。

まったく意味がわからないといった顔のまま、ゾロは適当な相づちを打った。

「それだけを言いにきたのか?」

「違う。」

訝しげな表情を浮かべるゾロに対し、彼女は首を左右に振り否定した。

意味がわかんねぇよ。と突っ込みを入れたい気持ちをグッとこらえ、彼は次の言葉を待つ。

「あ、あのね…。」

イオナがなにかを決意したかのように、崩していた脚を直そうと腰を浮かした瞬間。

グラッ

本日2度目のバッドタイミング。

彼女の身体は大きく揺れた船体に合わせて体勢を崩し、ゾロに向かって飛び込むかのように倒れる。

その一瞬の間になんとなく確信めいた嫌な予感を感じながら、彼は両腕を伸ばして彼女の身体を支えようとして。

ぶちゅ。

まったく色気も雰囲気もなく鼻先同士をグチャっと衝突させながら、目を閉じる暇など与えられぬまま、

二人の唇は重なった。

瞬時に反応したのはもちろんゾロ。

「わっ、わりぃ。」

支えていた華奢な肩を押し戻しながら、謝罪する。それに対するイオナは黒目がちな瞳を揺らし、口をパクパクさせていた。

ビンタをする余裕もないくらいに驚いて、動揺して、硬直している。

それを悟ったゾロは、あふれでる汗を拭おうと彼女の肩から手を離す。

それに合わせたかのようなタイミングで、なぜかイオナは大きく息を吸い込み…

それがなにをするための動きか悟ったゾロはただただ慌てた。

─やべぇ、叫ばれる…

慌てた脳はただ『彼女の口を塞げ』とだけ指令を送る。

イオナの肩にそえられた両手。落ち着いていれば、それで彼女の口を塞いでいただろう。

しかし、そんなことを考える余裕も判断力も今の彼にはない。

それは一瞬の判断力の欠如。

ゾロの唇はまるで吸い込まれるかのように、今にも叫ばんとする彼女の唇を塞いだ。

「んっ、んーっ!」

悲鳴はこもった音で彼の口内で響く。

バランスを崩したせいで、はたまた叫ばれる恐怖から、2度の口づけを交わした二人を待ち受けているもの、

いや、正確にはゾロに振りかかる災難。

抵抗するかのように胸板をバンバン叩いていたハズの拳が動かなくなったとき、彼は理解した。

まるで動かない身体を、離すことの出来ない唇を、振り払うかのように

まるで張り倒すかのように、

まるで押し潰すかのように。

ペッチーンッ

打たれる頬、離れる唇。

肩を掴んでいた手の力は抜けていたらしく、イオナは弾丸のような勢いで立ち上がり、ベッドの柵を越え、部屋を飛び出した。

結局、彼女がここへ現れた理由もわからぬまま、また頬を打たれてしまった。

それどころか…

ゾロは一人カッと赤くなる。

「いったいどうしろってんだよ…」

このぼやきが照れ隠しなのか、苦し紛れなのかは彼本人にもわからない。

たった1つ。

裂けるような衝撃を頬に浴びながらも、唇に残るその温もりの方がインパクトがあっただなんて…


今は理解したくなかった。


こうしてやるせない夜が明ける。




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