ゾロ | ナノ


◇◆◇◆◇◆◇◆

彼女にとって唯一、完全に一人きりになれる場所。

それはバスルーム。

湯船の中でイオナは天井に取り付けられた電灯に、自身の掌をかざして呟く。

「またビンタしちゃった。」と。

もう痛みなんてないハズなのに、眺めているうちにジンジンとした痺れの感覚が甦る。

よく子供に手をあげた大人たちが『叩いた方も痛いのよ!』などと口走る。

イオナはその都度、『大人は言い訳ばっかり』だとか、『自己中心的な解釈ばかり』などと、その言葉を切り捨ててきた。

けれど─

「確かに痛い…。うん、痛い。」

それは掌だけの話ではない。

照れくささと恥ずかしさに動揺を上乗せすることで生まれた勢いは、掌に宿って一発の平手打ちとなってしまう。

突発的な行動のために、自己抑制すら働かないのだから仕方がないと言えばそうなのだけど。

決して後味がいいものではない。

無意識で繰り出した一撃が、後から、後から、後悔や罪悪感となって押し寄せてくる。

それがチクチクと胸を刺し、時には重くのし掛かり、時間が経つほどに膨れ上がってきて…。

「嫌われちゃったよなあ、きっと。」

好意に気がつかれてはいけない。ならば、嫌われていた方が都合はいい。

でもそれは…、とても悲しい。

イオナははっきりと思い出す。

彼の腕の熱を、力加減を、それだけではない。その状況の全てを冷静に思い返す。

「そういえば…」

今日のあの瞬間。

ゾロは一瞬身構えた表情をしていた。

瞼の裏に焼き付いた彼の表情は、諦め交じりの苦笑だった。動揺していてその場では意識しなかったけれど、しっかりと瞼の内側には焼き付いていた。

「ちょっと待ってよ…。」

イオナはまたひとりごちる。

諦めた表情をするということは、叩かれることをすでに理解していて…。彼は、ビンタされることを受け入れたことになる。

─もしかして、ビンタをされるとわかっていても私を助けてくれた?

そこまで考えたところで、何度目かの罪悪感が押し寄せる。

─うぅ、で、でも。

あんな公共の面前で押し倒されたら、とっさに手が出てしまうのは仕方ないじゃないか。しかもクルーにまで見られてしまって…。

だからゾロはビンタをされても仕方がないとおもう。彼自身もそう思ったからこそ、受け入れたんだ。

普通に落ち着いて考えてみればわかる。自分のような素人が繰り出す平手を、避けられないほどあのゾロがどんくさい訳がない。

あれはきっと"わざと受け入れたんだ"。

脳内で行われる自分勝手な自己解釈。

少しでも罪の意識を軽くしたいという気持ちが先だって、都合のいい答えを導きだした。

押し倒された件については、ビンタで相殺された。じゃあ、助けてもらった件については?

「ちゃ、ちゃんとお礼を言わないと!」

ほどよい水温の湯船から、バシャッと大げさな音を立てて立ち上がったイオナ。

その瞳はやけに真剣で、身勝手な正義感に充ち溢れていて、それでいて決意の色に染まっていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

それは深夜。静まり返ったサニー号の中。

イオナは足音を立てぬように、恐る恐る廊下を進む。誰かが来たらすぐに逃げられるよう、全神経を続く暗闇に集中させていた。

目的地はもちろん。

「おじゃまします…」

声を潜めてまで挨拶をしたのは、勝手に忍び込むのではなくあくまで『客人である』と思いこみたかったからかもしれない。

ギシッと床の軋む音に驚いて、「ひぃっ」と小さく悲鳴をあげた。慌てて周囲を見渡してみるも、誰も起きた気配はない。

そう、ここは男部屋。

何度か掃除をするために入ったことはあるものの、こうして、深夜に忍び込んだのははじめてである。

イオナは迷うことなく、1つのベッドに目をつけいそいそと入り込んだ。

迫られるから手が出るのなら、こちらから迫ってしまえばいい。

それが彼女の答え。

仰向けで眠るゾロを跨いでしゃがみこみ、その顔をそっと覗きこむ。

久しぶりの寝顔だった。

この間までは無条件にこっそりと見つめることができていたその表情が、いまではこんなにレアなものになるとは。

やっていることはまるでストーカーでありながら、その自覚はすでに消え失せ、小さく息を飲みこんだ。

慎重にそぉっと顔を近づけて、いつもは乱暴にひっぱたいてしまうその頬に優しく触れてみる。

うぐぐぐぐ…。

眉を寄せるそのしぐさが、気の抜けたそのいびきが、無防備なこの身体が、なにがなんだかぁあああ…

─あっ、お礼言いにきたんだった。

一瞬、興奮で自我を見失いそうにになったものの、なんとか理性で本来の目的を思い出した。

身体を揺すって起こそうと思い、肩に手を乗せる。その時、視界に未開封の紙袋が入ってきた。どうやら、書店の袋のようである。

興味がある。とても興味がある。
いったいゾロはどんな本を読むのだろう。

誰かのものを勝手に見るのはいけないことだとわかっていたけれど、ささいな自制心では好奇心に勝てそうにない。

一旦、ゾロの肩から手を退かし、物音を立てぬようにその紙袋を手に取った。

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