プレイボーイ
なにもかも嫌になる。
吐き出したい気持ちは山ほどあるのに、ぶちまける場所がない。いつだってそうだ。不器用な生き方しか出来ない自分に一番腹が立つ。
イオナはグラスの底に残っていたアルコールを一気に飲み干した。わずかな水滴に濡れたグラス。残された氷の粒は大きく、彼女がかなりのペースでアルコールを煽っていることは明白だ。
「そんなに飲んでどうするつもりだ?」
「もう、電話、終わったの?」
「あぁ。」
苛立ちの一因であるサボは、彼女の向かい側に腰を下ろすと、かっこつけた笑みを浮かべる。
このキザな笑顔に惚れてしまった自分に、さらに腹が立つ。今でもすでにほだされかけているのだからたちが悪い。
いっそ殴ってやろうか。
ボッコホコに殴ってしまえば、スッキリするかもしれない。でも…
「相変わらず酒乱は直ってないみたいだな。」
「なんの電話だったの?」
「普段からそんな飲み方してるのか?」
まったく会話になっていない。噛み合わない二人の会話を前にしても、表情ひとつ変えないウェイターはすごいと思う。
イオナはサボを睨み付けたまま新たなグラスを受け取り、琥珀色の液体を喉に流し込む。それは落ち着いた色をしている癖に、粘膜に触れると熱くてしかたなかった。
「ピッチを落とすか、軽い酒にするか。どっちかにしないと、潰れちまうぞ?」
「そっちが長電話してくるからでしょう?」
「たかが5分で長電話か。ちょっと気が短くなったんじゃないのか?」
「私を5分も待たせるのはサボくらいなの。」
「炊飯器は早炊きにしたって30分は待たせてくるだろう?」
「あらかじめタイマーにしてあるから。待たされたことなんてない。」
「それは利口だな。」
こんな時にジョークを言えるサボも、まともに返してしまっている自分も。本当にどうかしている。
彼は相変わらず余裕の態度を崩さず、コジャレたグラスに注がれたビールをグッと一気に飲み干した。
よほど喉が渇いていたのか、同じものをウェイターに頼んでいる。
あんな苦いだけの液体を、よくもまあ、美味しそうに飲めるものだと思う。
何度かつられて飲んでしまったことがあるけれど、その都度後悔した。
一度、どこが美味しいのと訊ねたことがあるけれど、「お子ちゃまにはわからない味だろう?」と余裕ぶられてムカついたので、それ以降は聞いてやらないことにした。
この男の側にいると腹の立つことばかりだ。いいことなんてこれっぽっちもない。きっと相性が悪いのだろう。
それに合わせて、もとより虫の居所が悪かったのだから、不機嫌で居続けるしかなかった。
イオナは黙り込む。
自分が作り出した無言だというのに、居心地が悪るくて仕方ない。チビチビと口に含んだアルコールが喉を伝う度に、軽く目眩がした。
いい加減飲み過ぎたかもしれない。そんな自覚はあるけれど、ここで引き下がってしまえば負けだ。何に?と聞かれればわからないけれど。
とにかく折れたくなかった。
指摘された通りだったなんて憎たらしくて受け入れられない。
まるでそうプログラミングされたロボットのように、無言でグラスを口に運ぶ。身体はそれ以上を受け付けないけれど、それでも飲むしかない。
苦々しげな表情で、イオナがアルコールを飲み干す最中、サボは三杯目のビールをウェイターから受け取った。
「なにがそんなに気にくわない?」
ウェイターが立ち去ったところで、彼は落ち着いた口調で問いかけてくる。キッと睨み付けてみるけれど、動じた様子は全くない。
イオナは「その態度。」とそっけなく答え、フンッと顔を背ける。きっと、その態度はずいぶんと子供っぽくみえたのだろう。サボは声を上げて笑った。
「俺はいつだってこんなだろう?」
「いつだってそんなだから腹が立つのよ。」
「呼び出しておいて理不尽だなぁ。」
「理不尽なのはその笑顔。」
「笑顔?」
「見てるだけで本当に腹が立つ。殴ってやりたいくらいに。本当だから。」
「ますます理不尽だ。」
サボは困った風に肩を竦めてみせる。けれど、それもまたパフォーマンスのように見えて仕方ない。
いっそう腹が立ち、イオナは席を立った。
「もう帰るのか?」
「くだらない電話のために待たされたからね。その分早く帰ることにしたの。」
「あの電話はくだらなくはなかった。それに、その分ってどの分のことだ?」
サボはスーツのズボンのポケットから財布を出しながら追いかけてくる。勘定はお任せしようと考え、イオナはそのまま店を出ることにした。ドアノブに手を掛けたところで、サボの「お釣りはつけといてくれていい。」という訳のわからない台詞が聞こえた。
「おい、イオナ。」
「もう帰るから。」
「真っ直ぐ歩けてないだろう?送っていく。」
「嘘。ちゃんと歩けてるから。歪んでるのは道の方。きっと間違いなく歩けてる。ついてこないで。」
視界がぐちゃぐちゃになる。きっとそれは、液状化現象のせいだ。アスファルトが歪んでいるに決まっている。私は正常だ。まともに決まっている。
そう考えるほどに視界が歪んだ。街のネオンがぐにゃぐにゃと曲線を描いて、頬に熱いものが伝う。
腕を掴まれ、足が止まる。隣から聞こえていたはずの声が正面から聞こえた。顔を覗き込まれたことはわかるのに、サボの顔はみえなかった。
「イオナ?どうした?」
腕を掴まれていたはずなのに、気がつけば力強く肩を掴まれている。軽く身体を揺すられるだけでの脳みそがグラグラと揺さぶられているような感覚を覚える。
三半規管が狂っているとしか思えなかった。
「もうっ、離してっ。ストーカーって叫ぶよっ!?」
「叫べばいいだろう?今叫んだって、聞いてる人からすれば酔っぱらいの戯言でしかない。」
「どうしてそんな酷いことを言うの?」
「イオナが酔っぱらっているからだろう?」
「うるさい。サボなんて、サボなんて!!!」
せっかくの待ち合わせ。久しぶりに逢えたというのに、なんでこんなことになってしまったんだろう。
苛立ちは孤独を煽り、熱い感情を抉る。
心配そうな声で名前を呼ばれても、どんなに肩を強く掴まれても、孤独であることは変わりなく、逆にそれを強く印象づけられているようで─
イオナは腕を前に突き出した。理不尽な怒りを包みこまんとする優しさを拒む。こんな感情を受け止めてもらう義理はない。
こういう無駄に優しいところもまた腹立たしかった。
突き出した手のひらが胸板にぶつかる。突き飛ばしてやりたいのに、彼はピクリとも動かない。逆にその反動で一歩後ずさってしまう始末だ。
「もう、なんで…っ!」
声を荒げながら、キッと顔をあげる。けれど、サボの表情をうかがい見ることはできなかった。
視界のふちで揺れる柔いブロンドの癖ッ毛。
鼻孔を擽る爽やかなコロンの香り。
肩を掴んでいたはずの手は頬に添えられていて、唇に乾いた温もりが触れた。
思考が停止する。酔いが一気に冷める。そのくせに、体温は急上昇した。
「やっと静かになった。」
顔の距離が離れても、しばらくは頭がついてこない。なにが起きたのか。なにをされたのか。
考えているまにも時間は流れる。
「タクシー乗るか?」
「えっと…」
「せっかくだし歩いて帰るか。」
言葉を発そうとするけれど、喉から漏れるのは乾いた空気だけ。脳みそは鉛になってしまったみたいに動かない。鈍く、ただ鈍くそこにあり続ける。
鼓動は早くなる一方だというのに。
その原因である彼は、勝手に話を進めてしまう。勝手に一人で納得して、クルリと身を翻し、歩き始めた。
「………ちょっと。」
やっと声が出た。そのときすでに、サボは3メートルほど先を歩いていた。
「ちょっと、待ってよ。」
やっぱり頭がついてこない。けれど、もう苛立ちはそこにない。ただ、見えているこの世界こそが全てだった。
END
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