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誘惑

7年付き合っている彼氏に「久しぶりに逢いたいな」と連絡してみたら、「嫁のつわりが酷いんだよ。」と返信がきた。

正直、意味がわからない。

確かに、仕事の関係で『遠距離』になった時期もあったけれど、長期休暇などで帰ってきた時には逢っていたし、身体の関係もあった。

時々違和感を覚えることこそあったものの、そこまで大袈裟なものではなかったし、なによりいつ結婚したというのだろう。

学生時代からの付き合い。少なくとも、最初から既婚者だったなんてことはないはずだ。

頭の中が『彼氏だったはずの人』のことでグルグルする。過去の初々しかった頃の思い出から始まり、遠距離になることが決まった時の不安な気持ち。久しぶりに逢えた時の充足感。

たくさんの思い出を貪るように思い返し、そして終着地点にあるのは『嫁』発言。

どうしたって意味がわからない。

その言葉の意味を確認しなくてはと思うけれど、その勇気がない。

もしかしたら、気がつかないフリをしていただけで、心では彼の異変に気がついていたのかもしれない。

例えば、柔軟剤の香りだとか、ちょっと下手くそなアイロン当てのワイシャツとか、パンツが地味なボクサータイプから派手なトランクスになったとか…

心当たりどころじゃない。
確実にそれが異変だと理解するのに、どれだけの時間を費やしたのだろう。

あまりのいたたまれなさにグハッと頭を抱えたところで、ポンッと肩を叩かれる。

「…なんですか?」

「俺に向かってなんですか?か。イオナもずいぶんと偉くなったな。」

「なっ、シャンクスさん!?」

イオナはバッと顔をあげ、振り返る。そこには緩くスーツを着崩した上司の姿があった。

「おい。ここが会社の会議室ってことを忘れてるんじゃないだろうな。」

「え?あれ、みんなは…?」

「もうとっくに会議は終わったよ。みんなディスクで仕事してるか、喫煙所で喫煙してるか…」

筒状に丸めた会議資料で自身の肩をトントンしながら言葉を紡ぐ上司を前に、イオナはメモの取られていない資料をみつめワナワナと震える。

彼氏が知らぬ間に既婚者になってしまっていたからといって、会議の間中、意識を飛ばしていいはずがない。

どれだけのショックだろうが、仕事に影響を出るほど仕事とプライベートを混同させていいわけがなかった。

「…すみません。」

イオナは素直に謝る。
いろいろな意味で泣きたい気分だった。

「なにかあったのか?」

「まあ。」

「なんだ。話してみろよ。」

「えぇ!?あぁ、でも…。」

特に急ぎの仕事もないのか、シャンクスはイオナの隣の席に腰を下ろす。

そして、そのついでと言わんばかりの態度で、彼女の座る椅子をくるりと回転させ、互いを向かい合わせにした。

「遠慮はしなくていい。なんでも話してみろ。」

「でも…」

「さては恋の悩みだな?」

押し付けがましいお節介。それでも嫌な気がしないのは、シャンクスの人となりのせいだろう。

温かな笑顔を向けられた上、二の腕の辺りをポンポンと軽く叩かれるだけで、ずいぶんと気持ちが軽くなってくる。

「俺の得意分野だ。ほら、話してみろ。」

「それじゃあ…。」

普段のシャンクスの態度から考えると、このぐいぐいくる感じはひどく強引すぎるように思える。

ただ部下を心配しているというだけで、ここまで積極的になれるものなのだろうか。

失恋?による混沌のせいでネガティブになっているのか、一瞬、上司の野次馬精神を疑ってしまう。

けれど、友人に相談できる内容でもないため、イオナは恐る恐る今しがたのメールについて説明した。

すべてを聞き終えたシャンクスは眉間にシワを寄せると、腕組みして「うーん」と唸る。

「そうか。予想以上に重そうな話になったな。」

「やっぱ、重い話ですよね。」

「普通に生きてれば、起こり得ないシチュエーションだからな。」

「…………。」

「事実は小説より奇なりっていうから、それもまた人生ってヤツか。」

ふんふんと勝手に納得されても困る。

腕組みしたまま頷くシャンクスを前に、なにかいいアドバイスをいただけるのではと期待していたイオナはシュンとした。

その反面、自分だってこんな話を聞かされたらどう反応していいのかわからなくなるだろう。とも思う。

どちらにしても、シャンクスに伝えるために、なるべく分かりやすく事実を整理し、自分なりの言葉にした分、頭の中でグルグルさせていた頃よりはずっと楽になった。

「聞いてくださってありがとうございました。少しだけ気持ちが楽になりました。 」

「んー。いや、俺はただ聞いただけだしな。」

「でも、助かりました。」

イオナは無理矢理にっこり笑顔を作って席を立つ。下手な慰みをもらうと、逆に傷が深くなる。無意識のうちに防衛本能が働いた。

人を安心させるためにあるような優しい笑顔をまえに、涙を溢してしまわないように踵を返したのだが──手をギュッと握られ引き留められる。

「まあ、待て。」

温かな手のひらは、裏切りに冷えきった心に温もりを注ぎ込む。

呼び止める声の低く柔らかな響きに、イオナはおもわず振り返ってしまう。

そんな彼女の腕をシャンクスは迷うことなく引き寄せた。 完全に呆気にとられていたせいで、イオナの身体は、あっという間に抱き止められてしまう。

「寂しいなら俺を頼ればいい。」

「はい?」

「次の男が見つかるまででもいい。一生でもいい。代わりでもなんでもいい。俺を頼ってくれないか?」

突然の展開に頭がついてこない。
いくぶんかマシになっていたとは言え、すでにこんがらがっていた頭の中だ。パンクしてしまったのかもしれない。

なにか言わないとと口を開いたところで、喉からは色のない呼気が溢れるばかり。

「俺にとってはもちろん、イオナにとっても悪い条件ではないと思うぞ?」

思考回路は完全にショートしてしまっている。知らないうちに不倫相手みたいになってしまっているし、それを知ったその直後に上司に口説かれるし…

全てが夢なんじゃないかと疑ってしまう。

「イオナは自分で気がついてるか?」

肩を押され身体が離される。体温が重なっていた部分が冷気に触れ、どうしようもない心細さが生まれた。

「ここは怒るとこだ。」

「へ?」

「ショックで弱ってる人を口説くなんて最低だって、俺に憤るべきとこだろ?」

「………。」

呆然とするイオナに、言い聞かせるような口調で語りかけるシャンクス。その声音はどこまでも優しく、はちみつのように濃く甘い。

憤りを覚えるどころか、その甘い響きをもっと求めている。全身はじんわりと火照り始めているし、心臓はバクバクと音を立てている。

意識の中から7年間の恋愛に対する想いが霧散していた。彼のことなどどうでもいいと無意識に考えてしまっていた。

シャンクスに指摘され初めてそれに気がついたイオナは、自分がされたことすら忘れて、ひどく罪悪感を覚える。

「そんな顔しないでくれ。」

顎をクイと持ち上げられ、視線が噛み合った。妙な照れ臭さに思わず視線をそらしてしまうけど、シャンクスは甘い追撃をやめようとはしない。

頬と頬が触れあいそうなほどに顔を寄せられ、耳に熱い呼気がかかる。視界の縁で揺れる赤髪がさらに強く心を叩いた。これだけでも十分に破壊力があった。

高揚から強くなる熱量と共に溢れてきた、どろどろに溶かされてしまいたい衝動。初めて覚える強い欲求にイオナは身体を強張らせる。

自分がそこまで軽い女だったろうかと不安になる一方で、求められたいという想いは強くなる。

例え騙されていてもこの人が相手ならば納得できるかもしれないと。

「イオナを困らせたいわけじゃない。もちろ弄ぶつもりもない。ただお願いしてるだけだ。」

鼓膜に直接囁きかけられ、頭がクラクラしてきた。
強張りはあっという間にほどけ、指先には力が入らない。

シャンクスは上目使いにイオナの瞳を覗き込むと、色気と茶目っ気を半々に言い放つ。

「俺の傍にいてほしい。ってな。」

「……っ。」

欲していたままに与えられる追い討ちを、拒むという選択肢はない。ギュンッと胸を絞られ、息を呑んだイオナ。その唇に温もりが触れる。

押し当てられる熱い唇と歯列を割り、強引に口腔に押し入ってくる舌。イオナはそれを受け入れるように、腕をシャンクスの首へと回した。

「んっ、はぁ、ん…っ。」

ここが会議室であることも忘れて、大袈裟に求め合う。イオナの身体は会議用テーブルに腰を預けたシャンクスの膝の上に乗り上げ、重なる呼吸の音は荒々しくなる。

歯止めが効かなくなってきた。

なにも考えられないくらい、ぐちゃぐちゃにされたい。注ぎ込まれる熱量でどろどろに溶かされたい。これまで感じたことないほどの快感を味わいたい。

どこにその根拠があるのかはわからないけれど、この人ならそうできるとイオナは感じていた。

ねっとりと上顎をなぜられ、腰がうねる。太股に触れる硬さが、相手の興奮を教えてくれる。イオナの手がそこに伸びたところで、シャンクスは慌ててイオナを引き剥がした。

「待て、ちょっと待て…」

「………。」

「さすがにここではまずいだろ。」

「……あっ。」

防音の効いた密室とはいえ、そこは会議室。状況を理解し、頭が冷えると妙に恥ずかしくなってくる。イオナは慌てて立ち上がるけれど、腰が抜けているのか足元がぐらぐらした。

転げてしまいそうになったところを、素早く立ち上がったシャンクスによって支えられる。

「あの…」

乱れたままの呼吸。じんじんと疼く下半身。どうにかしかけていた頭は、まだ甘い刺激を求めている。イオナはその長身を見上げる。

額にうっすらとにじむ汗と、小刻みに上下する肩。普段から素敵な上司だとは思っていたけれど、今はまた違う意味での魅力を感じてしまう。

同じくらい乱れたはずなのに、それでもシャンクスはいくばか余裕そうだった。

「ずるいです…。」

思わず口をついてしまう言葉。
それを聞いて、彼は「なにがだ?」と首を傾げる。

「私は、こんなに…」

身体中がじんじんする。触れて欲しくて、もっと体温を知りたくて、そう思っている自分が恥ずかしくて、羞恥心からさらに身体が火照って─

生殺しに耐えられず、疼きを増していく。

何事もなかったかのようにスーツを直す姿を見せつけられてしまえば、それは余計だ。

シャンクスは自分のスーツの襟を整え終えると、それが当然のことであるようにイオナの乱れた髪へと手を伸ばした。

そして、涼しい顔で言ってのける。

「安心しろ。今夜は寝かせない。」と。

「……っ!っ!!!」

普通に言われると古臭いと笑い流せる言葉も、熱い口づけの後となるとそうはいかない。すでに熱を増していたイオナの脳みそは、決定的な追い討ちにボンッと音を立てショートした。

END


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